【後編】内藤俊一氏が語る父・内藤秀雄氏の人生「しょっちゅう夢で会いますよ」

南カリフォルニアの不動産事業で活躍した内藤秀雄さん

内藤秀雄

1926年7月1日兵庫県出身、SBDGroup Inc.Chairman/内藤俊一:1948年1月1日大阪府出身。SBD Group Inc. President and CEO 。
SBD Group Inc.:1975年創立、カリフォルニア拠点。主な事業はオフィスビル、ショッピングセンター、ホテル、アパート、リゾート地の所有と管理。

2023年12月、南カリフォルニアで不動産事業において、その人徳と手腕で活躍した内藤秀雄氏が死去した。このことはまだ多くの人に知られていない。今回、息子である内藤俊一氏は「父が亡くなったことを皆様に知ってほしいとともに父の人生についてお伝えできれば」ということでお話を伺ってきた。(インタビュー:2024年10月10日)

~前編(1月17日号)からのつづき~

 家電量販店のオーナーであるロザラ氏が、別の街に新しい家電量販店をオープンすることになった。新しい店はロザラ氏が店長となり、もともとあった古い店は秀雄に任せられることになった。俊一はそのとき11歳か12歳になっていた。ある日、近所のYMCAのプールに友達と泳ぎに行った。友人2人と俊一と弟の4人だった。けれども俊一と弟だけ、プールに入ることはできないと係の人は頑なに言った。入ることができるのは白人の2人だけ。俊一は、それまでもいじめに遭ったことはたびたびあったが、入場できなかったこの記憶が強く心に残っている。人種差別を受けた鮮烈な経験だった。帰宅後、俊一はこの悔しい思いを涙ながらに秀雄と母・加夜(かや)に語った。夫婦は話し合い、強く人種差別の残るこの土地を離れ、カリフォルニア州に移ることを決心した。秀雄を店長にしてくれたロザラ氏に事情を話すと「わかった」と快く理解してくれた。

カリフォルニアへ。不動産事業に参入、拡大。

 カリフォルニアで最初に腰をおろしたのはイーストロサンゼルスだった。秀雄はここでも家電量販店で職を見つけ、家電修理の仕事をした。俊一は不思議だった。「うちの冷蔵庫も直せないのに」と。秀雄は人徳で仕事を見つけていたのかもしれない。俊一はUCLAに進学し、学費を稼ぎながら大学で学んでいた。在学中、秀雄は知り合いから頼まれた「Fuji Café」というレストランを買うことになり、俊一はそこで給仕の仕事をしたこともある。調理場に立ったのは加夜だった。「場所が悪かったですね。悪い場所で商売をすることはダメなんだと思いました」数年後、手放した。商売の難しさを知った貴重な経験になった。

 あるとき秀雄は声をかけた。「俊一、いっしょに事業を始めないか」俊一はレストランをやることや商売には興味がなかった。建物のオーナーになることに大きな興味があった。自分の手で事業をつくることをやってみたいと思っていたからだ。不動産業を始めるにあたって、どういうわけかお金は自然に集まった。「返すのはいつでもいい。秀雄のためなら貸すよ」と多くの人が言ってくれたのだ。

 最初に買ったのはタッセンのオフィスビルディングだった。俊一は語る。「父は店子を商売相手と思わず、仲間と思っていました。店子と良好な関係を築く。店子が困っていたら進んで力になる。コロナ禍のときもそうやって多くの店子を救いました。賃料を払えない時は待ちます。信頼関係を何より大事にしていました。父の理念です」
 不動産事業をともに始めたメンバーは、秀雄、俊一、裕二(次男)、梅田光一の4人。梅田は、UCLAの語学留学生で、俊一は拳法を通して知り合った。梅田が秀雄の家に初めて来たときのおもしろいエピソードがある。自宅のソファに座った梅田の顔に、秀雄は尻を近づけて、いきなり放屁したのである。梅田はどっと笑った。秀雄もどっと笑った。場は一気に和んだ。「父は非常にユーモアのある人でした。そのときから梅田は我々の家族の一員のようになりましたね」俊一は梅田が家族の一員になった瞬間を昨日のことのように記憶していた。

■叙勲式にて。
■野茂英雄さんと。写真右が内藤秀雄さん。

事業拡大のキーポイントは「人を見る目・信頼関係・人脈」

 レッドランズのモールやサンタアナタワーズ、AARPビルディングと不動産事業はどんどん大きく展開していった。秀雄が縁をつなぎ、三井不動産販売とパートナーとなり、さらに事業は拡大していった。ある日、秀雄がジム・ハースンという男を俊一に紹介した。「誰?」と聞くと、「間違いのない人物だ」と秀雄は簡潔に言った。秀雄には人を見る目があったし、俊一はその目を信頼していた。「父が間違いないといったら間違いないんです」ジム・ハースンは今や不動産事業の共同経営者で、副社長を務めている。秀雄、俊一、裕二、梅田、そしてジム・ハースンの5人が主なるメンバーとなり、次々と事業をつくっていった。秀雄が人脈をつくり、俊一がビジネスを成立させ、ジム・ハースン、梅田、裕二が脇を固める。それぞれが各々の特性を生かし、持ち場を守ることで事業を拡大してきた。

 最盛期には、100以上のオフィスビルやモールを所有していた。秀雄は己の利益だけを考える自己中心的な人は好まない。しかし人のために尽くすことのできる人は好きであり、信頼するのであり、そういう人たちが事業のパートナーになっていった。俊一は語る。「たくさんの人が父を慕って自然と集まってきました。父は不思議とそういう特性があるんです。著名な人も身分が高い人も政治家もスポーツ選手もいました。父のおかげで、僕はたくさんの人と知り合うことができましたし、すばらしい仕事相手に巡り合うことができました。父は本当に人を見る目がありました」

■ロサンゼルス・ドジャース元オーナーのピーター・オマリー氏と。

 秀雄が亡くなる二日前、俊一の犬が秀雄のベッドに行き、秀雄の顔を舐めた。秀雄はその日、笑って眠った。2023年12月8日、秀雄は家族に見守られながら、眠るように息を引き取った。97年間の人生だった。秀雄が亡くなったことについて俊一は悲しくないという。「充分いっしょに生きてきましたし、仕事をしてきましたし、それに夢でしょっちゅう会うんですよ。父は家族に尽くし、仲間に尽くし、コミュニティーに尽くす人でした。人のために動ける人でした。生涯をかけて日米の友情を築くことに力を注ぎました。父の残したものを大事に引き継いで、今後も頑張っていこうと思っています」。

~後編(1月24日号)へつづく~


.

.

.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。