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第九十三回
「人のお世話をするように」
後藤新平が残した改革と人づくり
後藤新平が民政長官に就任した頃の台湾の平均寿命はとても短く、30歳前後でした。後藤は衛生事業を最優先に掲げ、感染症が広がりにくい環境を整えるため、幅広い道路を整備して日当たりや風通しを良くし、さらに雨水がたまると蚊が発生してマラリアの原因となることから、各地に排水溝を設けて雨水を市外へ流す仕組みを徹底しました。日本から100人を超える医師を招いて台湾全島に配置し、近代的な衛生教育のための医学校や病院、予防消毒事業団を設立するなど、次々と衛生改善策を実行していきます。こうした取り組みの積み重ねにより、あらゆる感染症は次第に姿を消していきました。
また、当時の台湾で深刻な社会問題となっていたアヘン吸引常習者を減らすための施策も講じ、1900年には約17万人もいた常習者が、日本による統治が終わる1945年には撲滅に成功したのです。
優秀な人材の招聘にも力を注ぎます。そのひとりが後に「台湾砂糖産業の父」と呼ばれる新渡戸稲造です。新渡戸は、台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残します。
こうして後藤はわずか9年で台湾の近代化を成し遂げたのです。
1906年、後藤は台湾を離れ、南満州鉄道の初代総裁に就任します。ここでも若手の優秀な人材を招き、「生物学的開発」のために調査が不可欠として満鉄調査部を設置し、インフラ整備や衛生施設の拡充、都市建設を次々と進めていきました。
帰国後は、逓信大臣、鉄道院総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長を経て、1923年に発生した関東大震災で焼け野原となった東京の再建を任されることになります。後藤は、東京を震災前より発展させるとして、「復旧」ではなく、「復興」を唱えて事業に取り組みます。現在の東京はこの時の復興が礎となっている街なのです。
後藤は、少年団日本連盟(ボーイスカウト)の初代総長も務めました。そこに集う子どもたちに常々伝えていた言葉がのこされています。
「人のお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして報いを求めぬよう。」
この言葉は、今もスカウトスピリッツとして大切に語り継がれています。

(9/24/2026)

筆者・森 日和
禮のこと教室 主宰 礼法講師
京都女子大学短期大学部卒業後、旅行会社他にてCEO秘書を務めながら、小笠原流礼法宗家本部関西支部に入門。小笠原総領家三十二世直門 源慎斎山本菱知氏に師事し、師範を取得する。2009年より秘書経験をいかし、マナー講師として活動を開始する。
2022年より、廃棄処分から着物を救う為、着物をアップサイクルし、サーキュラーエコノミー事業(資源活用)・外国への和文化発信にも取り組む。
https://www.iyanokoto.com
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