内藤秀雄
1926年7月1日兵庫県出身、SBDGroup Inc.Chairman/内藤俊一:1948年1月1日大阪府出身。SBD Group Inc. President and CEO 。
SBD Group Inc.:1975年創立、カリフォルニア拠点。主な事業はオフィスビル、ショッピングセンター、ホテル、アパート、リゾート地の所有と管理。
2023年12月、南カリフォルニアで不動産事業において、その人徳と手腕で活躍した内藤秀雄氏が死去した。このことはまだ多くの人に知られていない。今回、息子である内藤俊一氏は「父が亡くなったことを皆様に知ってほしいとともに父の人生についてお伝えできれば」ということでお話を伺ってきた。(インタビュー:2024年10月10日)
「父は生涯にわたって家族を愛した人でした。父は母を大好きでしたし、母は父を大好きでした。二人はたくさん喧嘩をしていましたが、深いつながりがありました。家の中ではいろいろあっても、外では決して互いの悪口を言いませんでした。母が亡くなって、1年も経たず父が亡くなりました。2023年12月のことです。母が亡くなったとき、父はすでに半分亡くなっていたように感じられます。〝俊、悲しいなあ〟と父がさびしくつぶやいたのを鮮明に覚えています。父の人生の後半、僕は父と一緒に働きました。非常にすばらしい経験でしたね。たくさんのことを学びました。僕は父に大きな影響を受けていると思います」
いつも腹をすかせた少年時代
内藤秀雄は、1926年7月1日に兵庫県の北部に位置する但馬市(たじまし)に生まれた。3人の兄と1人の姉がおり、秀雄は5番目の子どもだった。家族は7人家族で、生まれた頃は裕福で教育にお金もかけてくれたが、父が事業に失敗したことがきっかけとなって一家の運命は大きく変わってしまう。一家は離散し、秀雄は寺に嫁いだ伯母の家に引き取られることになった。
寺の朝は早い。掃除に始まり、次々に寺の仕事が待ち受けている。つらいのは寺の仕事だけではなかった。腹いっぱいのごはんを食べることができないことが、もっともつらいことだった。戦争の影響は大きく、時代のせいもあっただろう。秀雄はいつもひもじい思いをしていた。お腹が空きすぎた秀雄はある日、寺を逃げ出してしまう。向かった先は姫路の伯父のところであった。名はミツオおじさん。「お世話になった」とのちに秀雄は述懐している。
負けは負け、戦争は終わった。アメリカから学べることを学ぶのだ。
秀雄の15歳の年から日本は太平洋戦争を始め、19歳のときに終戦を迎えた。俊一は語る。「父が戦時中を含め、どこでどういう風に身につけたかわかりません。でも父は十分に教養がありました。そういう基盤が彼の中に確かにありました」秀雄は心の切り替えが早い。戦後直後、こう語っていた。「負けは負けなのだし、戦争は終わったのだから、アメリカはもう敵ではない。アメリカと仲良くしようよ。アメリカから学べることを学ばなきゃいけない」秀雄は、日本にいた米兵と仲良くし、彼らと積極的にコミュニケーションをとった。秀雄は英語を流暢に操り、話した。俊一は語る。「英語を話すことやアメリカの文化に触れることについて、父はいっさい物怖じしませんでした。いつどうやって父が英語を身につけたのかわかりません。でも父は英語を話していました」
一家でアメリカへ。降り立ったのはミシシッピ州
1956年、一家に転機が訪れる。秀雄は日本でアメリカ人のベネディクト氏と知り合い、信頼関係を紡いでいた。ベネディクト氏はミシシッピ州のグリーンビル空軍基地の隊員だった。そのベネディクト氏を頼りに、家族全員で渡米することを決意したのだ。ベネディクト氏は内藤家4人分の入国を手配し、日本からの交通費を支払い、日本からサンフランシスコに到着した彼らを、車でそこまで迎えに行き、一家を連れてミシシッピ州グリーンビルまで向かった。ミシシッピからサンフランシスコまで、いったいどれくらいの距離があり時間がかかるのか、書かずとも想像はつくだろう。ベネディクト氏はそこまでのことをしてくれたのだ。当然、めったにあることではない。俊一は語る。「父とベネディクトのつながりは本物だったんでしょうね」また、当時アメリカ行きのビザが発給されるのはわずか185人という少ない枠だった。父・秀雄、母・加夜(かや)、長男の俊一と次男の裕二(ゆうじ)、この4人が185人分の4枠を埋めたことになる。「ベネディクトには感謝してもしきれません。そして今でも彼と僕たちはつながりがあります。一度できた縁はずっと続くんです」秀雄も俊一も、お世話になった人のことを忘れることはない。内藤一家にとって、この渡米は未来が大きく動いた瞬間だった。
そういうわけで、最初に腰をおろしたのはミシシッピ州だった。秀雄は働き者で、到着の翌日にはスーパーマーケットに行き、BAG BOYの仕事を見つけてきた。客が買ったものを袋につめ、せっせと働いた。
そのうちに秀雄は家電量販店に転職した。働き者だったため、そこのオーナーであるロザラ氏に非常に気に入られ「僕がお金を出すから君は大学で教育を受けるべきだ」と薦められ、ノースウエスタン大学でマネジメントを学んだ。「父が学位を取ったのか取っていないのか僕はわかりません。でも父は職場と大学を行ったり来たりして、非常に忙しくしていました」秀雄は、家族のために自分のために運命の赴くまま精力的に動いた。
~後編(1月24日号)へつづく~
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