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平野淳司
Junji Hirano
コンピューターグラフィックアーティスト
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「僕は昔からデザインすることやモノ作りに情熱を感じてきました。その結果、アメリカに渡ることになりました。わたしたちが目にしているものすべてにCG(コンピューターグラフィック)が存在していることはあまり知られていませんが事実です」
1967年に岡山県で生まれた平野淳司さんは、工場で働く父とピアノの先生の母のもとに生まれた。3人きょうだいの末っ子で、性格は甘えん坊で内弁慶。虫や動物が大好きで、怪獣と妖怪に夢中な少年は、仮面ライダーやウルトラマン、スターウォーズをよく見ていた。「そこが僕の原点だと思います」小・中学校時代の好きな科目は理科と技術。理科はセオリーを学ぶよりも実験が好きだった。技術の時間のことはよく覚えている。木材で小さい椅子や机を作ったりした。手を動かすのがとにかく好きだった。「キットでFMマイクを作ったとき自分で作れるんだって感動しました」電子工学を学べる工業高校への進学を目指したが、結果破れる。「勉強があまり好きじゃありませんでした。成績が重要ってリアリティーが僕の中で薄くて必死に勉強しませんでした」すべり止めの私立高校に進学したものの高校時代は楽しくなかった。
卒業後、両親が岡山県倉敷市にあるポリテクノカレッジ(職業能力開発大学校)に行くのはどうかと勧めてくれたことがきっかけで進学。そこで工業デザインを学んだ。「絵を描いたり、石膏像を作ったり、車や製品のデザインをし、そのアイデアをプレゼンテーションする訓練を受けました。やりたいことができた充実した時間でした」やりたいことを汲んで進学先を提案してくれた両親に感謝していると語った。その後は、地元のプラスチック工場に就職したり、横浜のデザイン事務所で働いたりしたが「もっと自分のやりたいことに近づくため」に在職中に通信教育に申し込み、自宅で工業イラストを勉強し続けた。車工場向けマニュアルを作る企業で働いた経験は特に大きな力になった。
35才のとき上京。働きながら「これからはコンピューターの時代だ」と休日に図書館でコンピューターの勉強をした。日本は当時好景気。日本の会社がサンタモニカにコンピューターグラフィックの分校をつくったと知り、以前からやりたかった映画の仕事をしたいと考え、渡米を決意。1クラス30人くらいで先生は全員アメリカ人。刺激的な半年間を経たあと、日本に帰らず、その地でCGアーティストとして生きてきた。「テレビ、映画、コマーシャル、ポスターなどのCGをこの世に送り出してきました。何かの風景動画から不要な人や建物を消したり、なかったものを追加したり撮影時の失敗を修正することもできます。存在しない空想のものはCGの得意とするところです。これからは身につけた技術を映像以外のことに使って何かを生み出していきたいですね」。
(1/15/2025)
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