「ミスタープロ野球」こと長嶋茂雄さんが、2025年6月3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で亡くなった。89歳だった。
日本中が悲しみに包まれている。長年スーパースターであり続けたが、世代によってミスターへの印象は違う。現役を知らない若い世代は、ユニークなコメントをする方。監督時代は原辰徳や松井秀喜を育てた印象があるのではないか。
私世代にとってのミスターは野球人として圧倒的な存在だった。彼が読売ジャイアンツに入団した昭和33年の日本はまだ貧しかった時代で、国全体がモノクロの世界だった。街並みも人も車もモノトーン。後楽園球場の観客席を見渡しても、男性は白の開襟シャツか会社帰りの暗いグレーのスーツ、若者達も学生服を着て観戦していた。しかし長嶋茂雄だけはカラーだった。そこだけ眩しく輝いていた。当時のプロ野球にも、もちろん川上、金田、別所とスターはいたが、やはりモノクロの世界。ミスターだけが別次元の輝きを放っていたのだ。
長嶋が立教大学から巨人に入団する前、プロ野球より六大学野球のほうが人気があった。そんな事情もあり、プロ野球界も派手なプレーをする選手もいなかったのでは。そこにミスターが彗星のように現れる。開幕戦では、国鉄スワローズ金田投手から4打席4三振の洗礼、ホームランを打ってもベースを踏まずアウト、果敢にホームスチールをしてもアウト。かと思うと、初の天覧試合でサヨナラホームランを放ち勝利を引き寄せる。ミスターの一挙手一投足に日本人が驚きの連続だった。当時私は子供ながらに「日本のプロ野球で一人だけメジャーリーガーがプレーをしている」「日本人が知らなかった本当の野球の楽しみを教えてくれた」「新しい時代が来た」そう感じたが、それは私だけではなかった。「こんなに楽しくプレーをしていいんだ」と、日本中の野球に対する概念を一瞬にして変えてしまった。エルビス・プレスリーやビートルズが音楽シーンに革命をもたらしたように、野球界をたった一人の男、長嶋茂雄が変えた。「ミスタープロ野球」と呼ばれる訳はここにある。
当時、私の住む築地にも、草野球ができる原っぱがあった。学校帰りにそこで野球をするのが日課で、遊んだ後は皆で近所の銭湯に行った。銭湯が近づくとそれまで笑って話していた仲間が猛ダッシュに。だれが一番早く下足箱の3番の札を手に入れるか競ったものだ。足の遅い私は取れた試しがない。その銭湯も今はないが、大好きだったミスターへの想いは消えることはない。
今は寂しい、悲しいと感情を伝えるより、たくさんの想い出と勇気と人生を教えていただいたミスターに「有難うございました」を伝えたい。
■テリー伊藤
演出家。1949年、東京都出身。数々のヒット番組やCMなどを手掛け、現在はテレビやラジオの出演、執筆業などマルチに活躍中。

