

佐野吉弘
Yoshihiro Sano
Pacific Alliance Group, Founder/President
佐野吉弘さん
<プロフィール>
1947年 大阪市出身
1966年 同志社大学経済学部入学
1969年 UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に転校・学士号取得
1973年 USC(南カリフォルニア大学)大学院経営学修士号取得
1976年 同大学院国際経営学修士号(MSBA)取得
1976-1980年 南カリフォルニア大学経営大学院 国際ビジネス教育研究(IBEAR)プログラム所長
1980年 米国4大公認会計事務所(Big4)のひとつErnst &Young(アーンスト・アンド・ヤング)の西部地区本部コンサルティング部のパートナー
1988年 Pacific Alliance Group, INC.設立
パシフィック・アライアンス・グループは何を解決する会社か?
1988年に、佐野吉弘(さの・よしひろ)さんが設立したM&A専門企業『パシフィック・アライアンス・グループ』は、国境を越えて、企業合併、買収、ジョイントベンチャー、投資に伴う業務を、欧米企業および日本企業に提供する会社である。『トクヤマソーダ(現:株式会社トクヤマ)』による米国上場企業『GENERAL CERAMICS社』買収や、イギリスに本拠地を置く世界最大のコントラクトフードサービス企業『コンパスグループ社』による『西洋フード(現:コンパスグループ・ジャパン株式会社)』の買収などを主に手掛けてきた。しかし、これらはほんの一部に過ぎない。彼はM&Aの専門家として、少なくない企業に影響を与えてきた。得意分野は製造業、流通業および外食産業。
また、JBA(南カリフォルニア日系企業協会)商工部会のメンバーとして長く貢献し、日本企業・在米企業半々で構成されるJBAにおいて、日本とアメリカの経済界を繋ぐボンドのような役割を果たしてきた人物としても広く知られている。人望が厚いのだろう。彼の周りにはいつも自然と人が集まっている。
そんな佐野吉弘さんは、いったいどんな半生を歩み、現在に至ったのだろうか。彼のユニークなキャリア変遷を伺ってきた。
ボーイスカウトがすべてのきっかけ
1947年に大阪市で誕生。5人きょうだいの4番目で、兄、姉、姉、自分、妹という構成だった。父は、学童向けの学習帳や文具を製造・販売するメーカーの創業者の一人で、非常にエネルギッシュな人だった。母は父を支える優しい人で、いつも忙しく立ち働き、生涯を通して佐野さんを心から応援し、理解する、なくてはならない存在だった。
佐野さんは自身を「異端児」と呼ぶ。5人きょうだいの中で、男は兄と自分だけ。昭和という時代特有の空気もあったのだろうか。「次男である自分は佐野家を継ぐ者ではなく、自分は自分で生きていかねばならない」と幼い頃から自然と胸に秘めている自立心の強い子どもだった。兄は真面目で几帳面。一方で佐野さんは自由奔放。「やると言ったら必ずやる」という性格は、幼少期から家庭環境のなかで培われたものだったかもしれない。
人生はいつもひょんなことから動いていくものだ。それは佐野さんにとってボーイスカウトだった。近所にボーイスカウトクラブがあり、興味を持ち「親に通いたい」と請うた。通うことを唯一許されたのはこれだけだったという。佐野さんは、サッカーでもなく、野球でもなく、剣道でもなく、ボーイスカウトの世界にのめり込んでいく。
ボーイスカウトは、キャンプや野外活動を通じて、青少年が心身ともに健全に成長し、自主性、協調性、リーダーシップを育む世界的な教育運動のこと。彼はここで、手旗信号や紐の結び方といった実用的な技術に加えて、何よりリーダーシップを学んだ。独立心の強い少年は、やがてスカウトリーダーとなり、スカウトマスターとなり、チームを束ねる存在になっていく。同時にコミュニケーションツールである英語も身につけていった。
ボーイスカウトの中で「備えよ、常に」という有名な言葉がある。何事においても入念な準備が必要で、その準備が海を切り拓いて道になるという教えである。ボーイスカウトのこの教えは、子ども時代の彼に影響を与えただけでなく、生涯にわたって彼の指針になっていった。

同志社大学からUCLAへ
父の願いもあり、同志社大学経済学部に入部。経済学部を選んだのは、父が商売をしていたからで、両親としては卒業後、家業に従事してほしいという思いがあったようだ。
大学1年のとき、4年に一度おこなわれるボーイスカウトの世界的な大会(世界スカウトジャンボリー)に出場する誉れ高い機会に恵まれ、米国のアイダホ州を訪れた。1966年のことだ。世界大会出場のあと、ナショナルパークを巡るツアーに参加し、広大なアメリカをまわった。「この世には、なんて広い世界があるのだろう。日本は小さい。アメリカに来たい。どうしても来たい」そんな願いが体のなかを電流のように駆け巡った。
「やると決めたらやる」佐野さんは、同志社大学を中退してカリフォルニア大学ロサンゼルス校に転校した。しかし、ここに裏話がある。母は「帰ってくることがあるかもしれない。帰ってきたときの場所を息子のために用意してあげなくては」と同志社大学の学費を黙って払い続けたのだそうだ。それを佐野さんが知るのは、ずっと後のこと。母の深い愛情が胸に沁みる。
アメリカに渡る日の空港に、母は見送りに来てくれた。羽田空港で涙しながら見送ってくれた景色を、佐野さんは昨日のことのように憶えている。母は戻ってきたときのために、大学を休学にして学費を払い続ける一方で、「決めたことは必ずやり通す息子のことだから、日本に帰ってくることはないだろう」と覚悟していた。彼はその当時のことをこう語る。「わたしに母の覚悟は伝わっていました」
妻との出会い
運命とはどこに落ちているかわからない。UCLAでは、のちの妻となる人と出会った。ハンガリー系アメリカ人の彼女は「あなたの英語、変よ」と率直に言う包容力のある人で、ソウルメイトのような存在だった。「彼女がいない人生は考えられませんね」と佐野さんは笑う。
22歳のとき、アルバイトでツアーの通訳をしていた。現金で1日100ドルをもらい、よく稼いだ。授業、彼女、アルバイトで佐野さんの英語はみるみる上達していった。
UCLA卒業後は、USCの大学院に進学。経営学をさらに深く学ぶ期間になった。「26歳までは自分の好きなように生きよう」と思い、そうしてきたが、26歳になったとき米国永住権を取得し、教授の一本釣りでUSCのIBEAR(国際ビジネス教育研究)の立ち上げに加わることに。リーダーシップのある佐野さんはクラスで目立っていたのだろう。
当時非常に珍しかった『12ヶ月でMBAを取得するカリキュラム』を立案・作成し(通常2〜3年必要)、この新しいカリキュラムが国(教育局)に認可されるために奔走した。企業のスポンサーが必要で、金融関係に特化したこのカリキュラムを、アジアの学生に広く知ってもらうため、マーケティングも精力的におこなった。大学院で新しいプラグラムを始めるなら、生徒という顧客が必要だからだ。佐野さんはインタビューも担当し、合否を決める役割も担った。IBEARが軌道に乗ったと確信した30歳のとき「そろそろ次の場所へ行く時だ」と感じていた。
常に10年が区切り
20歳で渡米、30歳でUSCの職を辞した。彼の人生は常に10年が区切りになっている。
30歳のとき、BIG4(ビッグフォー)と呼ばれる米国4大監査法人のひとつである『アーンスト・アンド・ヤング』に転職。USCの学部長が推薦してくれたことがきっかけで決まった。人生とは、点であるようで、実は線である。佐野さんの徹底した仕事ぶりや敵を作らない人格が誰かの目に留まり、次の道が自然と拓かれていく。
『アーンスト・アンド・ヤング』で彼が任された仕事は、西部地区本部のパートナーだった。西部地区とは、日本を含む世界の西側のこと。彼はここで責任ある立場を務め、企業買収、合併を担当し、日米企業の架け橋役として活躍した。加えて、会計事務所との連携を通して、日本ビジネスグループ(JBG)の設立に尽力した。彼はここで10年という時間をかけて、世界を飛び回り、経験を積み重ねた。
ここで余談をひとつ。この日本の監査法人との連携が原型となって、『EY新日本有限責任監査法人』が2018年に正式に誕生している。日本の4大監査法人『新日本監査法人』は、2018年に『EY新日本有限責任監査法人』と名前を変えた。EYとは言わずもがな『アーンスト・アンド・ヤング』の頭文字EYである。海外投資家や海外企業とのビジネスにおいて、EYブランドは強い。EYと日本法人の一体感を高めることが狙いとなって、この名称が誕生した。
この流れも、もしも当時、佐野さんが日本支社の設立に尽力していなかったら、なかった可能性がある。人はいつも花になってその存在に気付く。しかし、その花が開くなら、種まきをした人が必ずどこかにいるはずなのだ。種まきをした人はこの世に知られることは存外少ない。

仲間と会社を立ち上げへ
30歳から10年間勤めた『アーンスト・アンド・ヤング』を退職したのは40歳のとき。やはり10年が節目。「次に進むべき時が来た」と感じた佐野さんは、前職から独立して、みずからの会社を仲間と立ち上げることにした。それがM&A専門企業『パシフィック・アライアンス・グループ(Pacific Alliance Group)』だ。
仲間というのは、『アーンスト・アンド・ヤング』の副会長Walter Beran氏と同会計事務所の部下。Walter Beran氏を『パシフィック・アライアンス・グループ』の会長に置き、佐野さんは社長に、部下は最高財務責任者に置き、3人で設立した。1988年のことである。 「会社を売りたい」「会社を買収してもっと大きな事業をつくりたい」といったクライアントの声に寄り添いながら、M&Aの専門家として多数の企業に伴走してきた。
ともに会社をつくった2人の仲間はすでに鬼籍に入ってしまったが、佐野さんは今も現役で走り続けている。彼を走らせる燃料は「すべてを受け入れる寛容性・奢らない謙虚心・ビジネスにおける卓越性」の3つで、その骨格は少年時代のボーイスカウトの時からだんだんと形成されてきたものだ
またボーイスカウトでたびたび耳にした「備えよ、常に」という言葉をずっと胸に抱いているという。「準備を入念にすることがチャンスをつかむことにつながるからです。旧約聖書のモーゼのように、海がカーテンのように浮き上がり、進むべき道ができるためには、常に準備をしておく必要があります。準備がすべてを制するのです」
今までのクライアントには、小売業、外食、給食産業のほか、自動車部品や産業部品供給メーカー、芸術関連専門学校、日米のIT関連医業などがあり、彼の忙しい日々は今も変わらず続いている。
WBC 影の立役者
米大リーグのドジャースがブルージェイズとのワールドシリーズを制し、球団史上初の2連覇を達成したことは記憶に新しいが、では、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)がどのように立ち上がったか、ご存じだろうか。
野球の国際大会は以前からあったものの、プロの選手がフルに出場する「世界一を決める大会」という意味では充分なものではなく、また従来の国際大会では、プロ野球選手の参加、選手の所属リーグとの調整、国際的な普及という面で課題があった。
2005年5月、MLBオーナー会議にてWBC創設が発表され、2006年3月第一回WBCが開催され、16チームが参加、プロ選手も出場できる国際大会としてスタートした。これは、少し調べればわかる誰もが知る事実だ。
しかしそこに至るまでに、佐野さんが関わったことを知る人は少ないだろう。MLBが日本側とWBCを立ち上げる時のアドバイザー兼通訳という橋渡しを彼は務めた。 「サンフランシスコ・ジャイアンツ」の元オーナーPeter Magowan氏は野球が大好きで、1992年に投資家グループを率いて球団を買収し、東海岸への移転を回避した人物として知られている。彼と、「ヒューストン・アストロズ」の元オーナーDrayton McLane氏が中心となって話し合い、「アメリカ国内の野球をもっと盛り上げるため」の原型として考えたのがWBCの始まりだ。
その際、彼らは日本の野球界とつながる必要があると考えた。「日本を巻き込みながら、世界を巻き込みながら」でないとWBCの成功はないと悟っていたからである。その時、白羽の矢が立ったのが佐野さん。佐野さんはすでに、日本の考え方もアメリカの考え方も理解できる希少な人物として経済界での一定の評価を得ていたのだろう。
佐野さんが、両氏と日本野球機構(NPB)の橋渡し役となり、日程や会場をアレンジした。その際、「ナベツネ」の愛称で知られる渡辺恒雄氏にも会ったという。今では世界的に知られるWBC立ち上げに、佐野さんは確かに貢献した。


レーガン元大統領との縁
るにしても不十分だと感じました。その思いが、後に代理人という選択につながったんです」
米国サッカー市場の変化
60歳になる手前に、佐野さんは、由緒ある共和党系のゴルフクラブであるLACC(ロサンゼルスカントリークラブ)のメンバーにならないかという誘いを受けて、このクラブの一員になった。こう書けば、単なる事実として捉えられるかもしれないが、これは簡単なことではない。
というのもLACCは伝統的な名門クラブで(排他的ともいえる)、入会は非常に難しいとされているからだ。まず紹介制でしか入ることができず、少なくとも2名以上の既存メンバーの推薦が必要。つまりLACC会員とのつながりを持っているかどうかが問われる。原則的に、面談や委員会による厳正な審査があり、選考プロセスに数年かかることも珍しくない。会員の属性(ビジネス・社会的地位・品位・ネットワーク)も重視される。そして公表されていないが、入会金・年会費が非常に高額であることでも有名だ。しかし、言うまでもなく費用だけ払えば入会できるというものではなく、「支払い能力」は審査対象のひとつである。
佐野さんは、この名門クラブLACCにほとんど時間を要することなく入会した。日本人、アジア人として非常に珍しいことだった。佐野さんの上司であった『アーンスト・アンド・ヤング』の副会長Walter Beran氏が、レーガン財団(Reagan Foundation)の財務担当理事を務めており、すでにLACCの会員であったことや、共に本を執筆した(後述)元駐日大使のJames D. HodgsonもまたLACC会員であったことから推薦を受けたので、入会がスムーズだった。この出来事は、佐野さんがビジネス界において相当の信頼を勝ち得ていたことの証といえるだろう。
LACCはいわば、ビジネス界や政界のクローズドな社交場としての役割を果たしている。レーガン元大統領といえば、ハリウッドの映画俳優から政治家に転じた共和党のアメリカ合衆国第40代大統領のことだが、彼もまた、このLACCの会員であった。共にラウンドを回ったことはないが、ゴルフ場で見かけたり、またロッカーが隣だったりしたこともある。佐野さんは語る。「すでに政界を引退しているレーガン元大統領をLACCで見かけて、互いに挨拶することもありました。彼は誰にでも愛想がいいので、僕が誰かを認識して挨拶していたとは思えませんが(笑)」佐野さんはどこまでも謙虚な人だ。決して驕らない。

未来を語る
自身の経験を綴った著書『Doing Business with the New Japan』(James D. Hodgson元米国駐日大使、John Grahamカリフォルニア大学アーバイン校教授との共著)では、日米交渉術の差を余すところなく説いている。この著書はその後、『Smart Bargaining-Doing Business with the Japanese』と名前を変えて、改訂版としても出版された。評判は日本にまで伝わり、日本語訳版『アメリカ人の交渉術:日本式とどこが違うか』として東洋経済新報社から出版されている。両国においてビジネスを成立させてきた佐野さんのユニークな視点をこの本から学ぶことができるだろう。
今年78歳を迎えてもなお歩み続ける佐野さんに、マインドセットは何かと問うた。
「すべてを受け入れる寛容性・奢らない謙虚心・ビジネスにおける卓越性の3つです。このどれが欠けてもいけません。マイノリティであることで差別を受けたこともあったと思います。しかし、わたしは気にしない。人種差別に気付いても無視します。アメリカに定着した新一世として、わたしがどのような人生を送ってきたか、少しでも皆さんの参考になるなら光栄です。また、あまり語ることはありませんが、妻はわたしを生涯にわたって支えてくれている重要な人です。いつもわたしを信じ、照らしてくれました。彼女がいなかったら今のわたしはいません。感謝しながら、今後も世のために役に立っていきたいと思います」

(11/25/2025)
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