

あなたは、日本人の血を引いているというだけで、住み慣れた家を追われ、収容所での生活を強いられた人々がいたことをご存じだろうか。
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第二次世界大戦中の1942年、アメリカ政府は西海岸に暮らす日系人約12万人に立ち退きを命じ、内陸の強制収容所へと送った。その約3分の2は、アメリカで生まれた市民だった。理由は、敵国・日本にルーツを持つこと。ただそれだけだった。人々は持ち出せるだけの荷物で家を後にし、仕事も財産も失った。今、私たちが南カリフォルニアで暮らし、ビジネスを営めるのも、この歴史を生き抜いた人々が築いた土台があってこそだ。
そして、その困難のなかで日系人のために立ち上がったアメリカ人たちがいたことは、あまり知られていない。ロングビーチの町とともに歩んできたFarmers & Merchants Bank(F&M銀行)も、そのひとつだ。
銀行の誓い
当時のロングビーチには、すでに多くの日系人が暮らしていた。福島県出身のジョージ・ヨモギダさんは、青果商を営み、毎朝、新鮮な野菜や果物を仕入れて売っていた。妻のルースさんは、ハワイで生まれた日系人で、家業の経理を担当してF&M銀行での取引も行っていた。
二人は、1939年、ダウンタウンの北、パシフィック・コースト・ハイウェイ近くに念願の一軒家を建てた。
しかし、平穏な暮らしは長くは続かなかった。1941年12月7日の真珠湾攻撃を経て、翌年3月には強制退去が始まる。ヨモギダ家に与えられた猶予は、わずか三日間。持ち出せるのは、ひとりスーツケース一つだけだった。
慌ただしく荷造りを進めるなか、夫妻が何より案じたのは、ようやく手に入れた家を失うことだった。ジョージさんは英語が不自由だったため、ルースさんが、住宅ローンを組んでいたF&M銀行に相談に行った。対応したのは、当時の頭取ガス・ウォーカーさん本人だった。話し合いの末、銀行がいったん家の所有権を引き受け、一家の不在中は第三者に貸し出して、その賃料をローンの返済に充てることになった。日系人に手を差し伸べれば自らも非難を浴びかねない時代に、ウォーカーさんはヨモギダ家の家を「守る」と約束したのだ。
固定資産税の支払いも含め、手続きはすべて銀行が代行した。「遠く離れた収容所から、送金などできません。誰かが代わりにやってくれなければならなかったのです。当時、銀行がここまで日系人や日本からの移民の面倒を見てくれたことに、私たち家族は驚いています」と、ヨモギダ夫妻の孫のパム・マクソンさん(67)は語る。
F&M銀行は、ロングビーチのコミュニティに根ざした、まさに地元の銀行だった。ウォーカー頭取自身がこの町に暮らし、子どもたちも地元の学校に通っていた。「ウォーカーさんと銀行は、日本人に限らず、困っている人がいれば手を差し伸べてきたと聞いています。祖父母たちを助けたことも、そうした数ある物語のひとつでした」とマクソンさん。

サンタアニタからジェロームへ
家を銀行に託した一家は、五人の子どもを連れて自宅を後にした。集合場所のサンタアニタ競馬場では、馬小屋の干し草を使って自分たちのベッドを作った。そこで数か月を過ごした後、行き先も知らされないまま、窓のブラインドを閉めた列車に乗せられ、深南部アーカンソー州のジェローム強制収容所へ送られた。
ジェロームは湿地帯を切り開いて造られた収容所で、夏は極度の高温多湿で蚊やダニ、毒蛇が多く、冬は厳しい寒さとぬかるむ泥土に悩まされた。当初は兵舎や食堂、ストーブの工事すら完了しておらず、窓ガラスのない木造バラックで寒さをしのぐなど、劣悪な環境だった。数千人が暮らす収容所のトイレやシャワー室、洗濯場、食堂は、すべて共同。夜間は、監視塔のサーチライトに照らされるなかを行き来しなければならなかった。買い出しや近隣農家での労働などのために外出許可を得て、有刺鉄線のフェンスに囲まれた収容所から出ることもできた。しかし一歩外に出れば、バスの座席や水飲み場を白人と有色人種で分ける、深南部特有の人種隔離にも直面した。

「私の未来」
1944年6月、ジェローム収容所が閉鎖されると、ヨモギダ家は約27マイル(約43キロ)北にあるローワー収容所へ移された。そのローワーの学校で、マクソンさんの父ハーバートさん(故人)は「私の未来」と題した作文を書いている。日系人が再び西海岸に戻れるというニュースを、ラジオで聞いた時のことだ。まぶたに浮かんだのは、庭の真ん中に小さなモクレンの木が立つロングビーチの自宅だった。「信じられないけど、現実なんだ。ずっと会いたかった昔の仲間たちと、芝生の広場で早くフットボールをしたくてたまらない。ママも、あの新しいデラックスな洗濯機を使ったり、自慢の家庭料理を振る舞ったりするのが待ちきれないはずだ」と、十代の若者らしい高揚を綴った。
一方で、不安も隠さなかった。「近所の人たちが僕たちにどう接するのかは分からない。戦前と同じように接してくれることを願うけれど、少しくらいは偏見を持つ人がいることも覚悟しなければならないだろう。すっかり背が伸びて大人びた同級生たちにも再会したいし、大きな絨毯やラジオ、ソファが置かれた広いリビングにある我が家のピアノも懐かしい」
物心ついてからの大半を収容所で過ごした幼い妹や弟も、ようやく普通の暮らしができる。作文は「これは僕たちにとって幸せな未来への一歩になるんだ」と結ばれている。

助け合いの精神
戦争が終わり、ヨモギダ家は約三年ぶりに自宅へ戻った。帰る家を失った日系人も少なくないなか、一家には戻る場所があった。「帰ってきたら、家が自分のものではなくなっていた人もいたと聞きます」とマクソンさんは語る。
もっとも、家は無傷ではなかった。立ち退きから数日後に車庫が荒らされ、家財道具やジョージさんの仕事道具が盗まれていたのだ。家族が戻った後に犯人は分かったが、ジョージさんは責めなかったと、孫のドレイク・ヨモギダさんは言う。「祖父は、『この男にも家族がいる。もう戦争は終わったんだ。放っておいてやれ』と言ったそうです」
日系人への疑いの目が残るなか、ジョージさんは接客の多い青果業を辞めて庭師に転じた。
帰還後の暮らしは、決して楽ではなかった。それでもヨモギダ家は、自宅を他の日系人のために開放した。収容所から戻っても、仕事も住む場所もない友人たちがいた。身寄りのない独身者も多かった。ジョージさんとルースさんは、「スーツケースはここに置いて、仕事や住む場所を探しに行きなさい。見つからなければ、うちで寝ればいい」と声をかけた。ジョージさんは、仕事先で帰還者の話を聞くたびに、その人を家に連れて帰ってきたという。食卓に並んだのは、いつもルースさん特製のスパゲッティだった。
「あなたが持っているものは、分け合えばいい。祖父母が私たちに教えてくれたことでした」とマクソンさん。ドレイクさんは、その精神をこう表現する。「種をまき、その木が育っていくのを見るようなものです」

町の銀行
ヨモギダ家との約束を果たしたF&M銀行は、「正直、誠実、家庭、信仰、無私の奉仕」を創業の理念に掲げ、南カリフォルニアの住民に寄り添ったサービスを提供し続けてきた。この価値観は、1907年に同行を創業したC.Jウォーカーさんと、信仰心の篤い妻キャリー・ウォーカーさんに始まり、五代にわたるウォーカー家に受け継がれてきた。「町とともにある」という姿勢は、さまざまな逸話に表れている。
ガス・ウォーカー頭取の時代には、こんな話もある。サンペドロで缶詰工場を営んでいたある顧客が、クリスマス向けに出荷したマグロの缶詰を、鉄道輸送中の脱線事故で失った。保険にも入っておらず、事業は破綻の窮地に立たされた。ガスさんは無事だった缶詰を買い取り、「払えるときに払えばいい」と伝えて工場主を救ったという。感謝した工場主は、その年のクリスマスに行員全員へ缶詰を贈った。「おかげで私たちは、今でも毎年クリスマスにマグロの缶詰をいただいているのです」と、現頭取のケビン・タイバーさんは笑顔で話す。
ガスさんの孫で、現在はエグゼクティブ・チェアマンを務めるダニエル・ウォーカーさんも、自ら理念を貫く判断を迫られたことがある。ガーデングローブの教会が3600万ドルもの負債を抱えた際、連邦準備制度からは物件の差し押さえを求められたが、ダニエルさんは応じなかった。「私たちには忍耐が必要だと考えました」。ダニエルさんの勧めもあり、最終的に物件はカトリック教会が買い取り、教会堂は取り壊しを免れて改修された。近年でも、新型コロナ禍のなか、州内でいち早く給与保護プログラムの融資を実行している。
「人が人生の目標を達成できる手助けをするため、銀行には忍耐が必要なのです」とダニエルさんは語る。「人に対して善良であること。誠実であること。人を守ろうとすること。それこそが正しいことなのです」
タイバー頭取も、日系コミュニティへの敬意をこう言葉にした。「1940年代の不当な扱いを私たちは忘れていません。だからこそ、ガス・ウォーカーの行動を誇りに思っています。これからの100年も、私たちは日系コミュニティに寄り添い続けます」

画像提供:Farmers & Merchants Bank
誠意の種
ジョージさんとルースさんが亡くなった後も、ロングビーチの家はヨモギダ家に引き継がれている。この家は、日系人の強制収容という悲しい歴史を物語ると同時に、それを生き抜いた家族のたくましさと、地域の助け合いの証でもある。
「戦争と激しい人種差別の時代にあっても、自分の仕事でできることを考えて、ひと肌脱いでくれる人たちが町にいました。そして日系人は、家族のためによい暮らしを築こうとする強さを持っていました」とマクソンさん。
ジョージさんとルースさんは、あれほどの苦難を経たにもかかわらず、当時の不満を口にすることはなかったとマクソンさんは言う。「二人とも、この国を愛していて、『私たちはアメリカ人だ』と言うのです。戦時中の経験も、私たちが尋ねて初めて話してくれました」。一方で、手を差し伸べてくれたF&M銀行や近所の人々への感謝は、たびたび口にしていたという。
不当な収容の歴史は、風化させてはならない。同時に、その時代に手を差し伸べた人々がいたことも、語り継がれるべきだろう。F&M銀行が示した誠意は、ひとつの家族を守り、やがて帰ってきた人々を迎える輪へと広がっていった。その誠意の種から育った木は、今も同行に、そしてヨモギダ家に、根を張り続けている。
(取材・文 志村朋哉)
(11/2/2026)
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