”遊びの延長”で 仕事もエンジョイ(9/18/2019)

当初の渡米目的はレコーディングエンジニアの勉強。しかし思いがけず趣味だった写真で食べていくようになった飯田麻人さん。「米国に来てから物事をフラットに考えられるようになった。日本のいいところも見えるようになり、今では感謝の気持ちでいっぱい」 (asatoiidaphoto.com)

カメラマン

飯田 麻人

Asato Iida

 

「カメラは今でも遊びの延長」。

そう語るのは在米9年目の飯田麻人さんだ。レコーディングエンジニアになりたくてやってきた米国で、カメラマンに転身。ストリートウエアブランドのビジュアル作りやミュージシャンの撮影をメインに活動している。

「写真は目に見えるものなら何でも撮ることができるから、何でも仕事になる。カメラがきっかけでいろいろな人たちに会えるのは、人生で一番価値があること。

自分個人では会えない人に会えて、撮りながら話も聞けるので、自分の世界が広がる」と、好きなことを仕事にできる幸せを噛み締めながらファインダーを覗く。

 

初めてカメラを手にしたのは19歳だった。プロボクシングのカメラマンだった祖母が、古いカメラを贈ってくれた。

初めて自分で撮影し、現像から上がってきた写真を見て「いいものが撮れた」とうれしくなり、すぐに写真を撮ることが趣味になった。

ロサンゼルスへは2010年にやってきた。米国の音楽が好きで、レコーディングエンジニアになりたいと思っていた。

この街を選んだわけを「兄と姉が住んでいたこともあり、自分の中でアメリカといえばLA、というイメージがあったのかもしれない。その兄の影響でヒップホップやグラフィティなどのストリートカルチャーに興味を持っていたこともあって」と話す。

 

学校を卒業後、老舗のレコードレーベルで働き始めた。

プロジェクトのアシスタントやショップで勤務するかたわら趣味で撮っていた写真を上司に気に入られ、インストアイベントの撮影を任されるように。

音楽を通じてスケーターやストリートブランド関係者とのつながりができ、ブランドのルックブックやミュージシャンのポートレート、アルバムカバーの撮影、日米のカルチャー雑誌など徐々に仕事は増えていった。

分岐点は5年前。働いていたレーベルショップがなくなり、「音楽を仕事にすると好きなことだけできないかもしれない」と考え、独立してカメラで食べていこうと決意した。

 

ファッションブランドとのコラボプロジェクト展開、写真展開催、フォトブックの出版など順調にカメラマンとしての道を歩む現在も、基本的な考えは子供のころから変わっていないという。

「22でLAに来たときは世の中のことを何も知らなかった。経験を積んで仕事のやり方も確立して、今は少し大人にはなったけれど、人を楽しませるためには自分が楽しくないとだめだと思っているのは今も一緒。クライアントありきではなく、自分が納得できるものを作っていきたい」と語る。

自分も楽しみたいけれど、人も楽しませたい。だからシャッターを切る。

ドキュメンタリーは自分目線で撮ることができるから楽しいという。「今後は本や服に関連するプロジェクトの展開を視野に活動したい」と話す

「まさか写真で食べていくようになるとは思っていなかった」ものの、“自由の国”アメリカで転身に成功した

 

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