【特別連載】倒産寸前からの巻き返し ターゲットは “Enthusiasts”(車好き)市場

水谷友重  Tomoshige Mizutani
TOYO TIRE株式会社 専務執行役員
TOYO TIRE HOLDINGS OF AMERICAS INC. 会長 & CEO

兵庫県神戸市出身、神戸大学経営学部卒業、84年日商岩井株式会社入社(現・双日)、主に鉱山用タイヤ輸出業務で世界40ヶ国に出張。92年ニットーブランドの再構築の任を受け、米国赴任。00年TOYO TIRE株式会社に移籍。05年Nitto Tire U.S.A. Inc.社長就任、11年TOYO TIRE株式会社執行役員就任、現在TOYO TIRE HOLDINGS OF AMERICAS INC.会長&CEO。
受賞履歴:米国下院議会より卓越したビジネスリーダーシップへの特別表彰(2013)、南カリフォルニア日米協会より「国際市民賞」(2014)
講演実績:USC MBA、UCLA MBA、UCI、合衆国空軍、 Chapman、Clemson、Pepperdine、Loyola Marymount 大学・大学院、ハーバード大学院 ビジネス・スクール Alumni (New York、Dallas Petroleum Club、南カリフォルニア 各地区 )他多数。

倒産寸前からの巻き返し
ターゲットは
“Enthusiasts”(車好き)市場

業界大手の総合商社に入社、20代で輸出業務で世界30ヶ国に出張、米国で倒産寸前だった会社を立て直し、タイヤ業界で1000億円を達成する世界企業に成長させた。「限界と突破」の狭間で葛藤を繰り返しながら、人生を駆け抜けてきた。

しかし、水谷さんは、神戸大学の恩師で『人生の師』天野先生の一言で、アメリカ行きを決意した。「大学受験で一次試験の点数は東大合格ラインをクリアしましたが、家庭の経済事情と父親が定年間近だったことで実家に近い神戸大学と決めました。国連のUNCTADと経済企画庁からの依頼で、当時の最新計量経済学理論を駆使して為替レートを予測する『天野モデル』を構築した天野先生のゼミに憧れ、経営学部を選びました。先生は留学先のNY州 Rochester大学で PhDを取得され、ゼミのスタイルは洋書の専門書を教科書とする、まるでアメリカの大学授業のようでした。私は、大学の2年生の終わりに天野先生との初めての個人面談の際、『なぜ一年もかけて卒論をするのでしょうか?それは、社会人になって一体どんな役に立つんですか?』と今から思えばとても失礼な疑問を伺います。先生は一瞬驚かれ、しばらく間をおいてから『確かに社会人では必要無いでしょう。しかし、先人の英知を勉強し課題のデータや事実を自ら探し集め、自身で考え結論を導き出す過程は、貴方がもし組織の経営者になったその時に大きな財産になります』とおっしゃいました」

 そこで、水谷さんは『天野モデル』のような予測モデル作成に卒論で挑んでみたいとお願いした。すると天野先生は、まずは準備として統計学やコンピュータなどの不可欠な科目を受講する指示と、参考文献の洋書2冊を手渡し、「これまで何人もの学生が挑みましたが、皆挫折しましたよ」とニッコリ。先生に指定された授業を3年生で全て履修し、4年になって先生の研究室のコンピュータを使わせてもらいながらコーヒー豆の価格予測モデルの卒論を無事完成させることができたという。「その時の一番の問題は、コーヒー豆の統計資料集めです。京阪神のどこの図書館でいくら探しても、見つかりません。でも、ついに求めていたデータを UCC様(上島珈琲)の本社資料部で見つけ譲って頂いた時の嬉しさは格別でした。この資料探しの経験があってこそ、後に世界の鉱山資料を見つけられたのは間違いありません。さらに社会人になってからも、『駐在』『転職』そして『大学院でのスピーチ』という人生の大きな節目の際に天野先生から御助言を頂きました」

 水谷さんは、人生の大きな決断を迫られたアメリカ赴任について天野先生に相談した。即座に先生は「アメリカは世界一競争が厳しく、常に革新が起こっている市場です。若いうちにアメリカを経験することは、ビジネスマンには最高の財産です。赴任先の会社の状況なんて二の次です。ぜひ行きなさい」と強く背中を押した。

 1998年10月、日商岩井は金融商品取引で約1600億円の損失を発表する。当時のメインバンクの銀行から数多くの行員が日商岩井全社に一気に乗り込み、全取引への精査が開始される。そして、収益を急激に上げ始めた  NITTOTIREのビジネス部門を製造元の東洋ゴム工業(現:東洋タイヤ)に売却する交渉開始が、あっという間に決定された。水谷さんは、そのプロセスで当時の東洋タイヤの細田専務から入社のお誘いを受ける。「しかし、周りの皆は『商社マン』の看板を棄てることに否定的。先生に相談すると、『アメリカ・ビジネスの醍醐味を知っていることは、素晴らしいじゃないですか。貴方が、NITTOの名前を誇れるように有名にすれば良いじゃない』と。ただちに迷いが吹っ切れ、永住権と定年までの米国勤務の願いを東洋タイヤに承諾頂いたので、転籍を決断しました。約束の永住権取得と定年までの米国勤務だけでなく、10年以上もの間、執行役員から常務専務に任命してもらえた東洋タイヤには感謝しています」

 2008年初頭、水谷さんのもとに、アメフト全米大学選手権で3回の優勝タイトルを持つClemson大学より「タイヤ業界のエグゼクティブ約300人ほどを集めるセミナーにおいて、40名の講師の1人としてスピーチしてほしい」との依頼メールが来る。驚いて問い合せると、「業界で注目を集め始めた”NITTO TIRE”をテーマの一つとするように運営委員会メンバーから推薦があって依頼しました。セミナーは2泊3日で、受講料2千ドルを払って出席する受講者全員は真剣です」とのことだった。「まさか自分が英語でアメリカ人エグゼクティブにスピーチする」など全く想像もできず、失礼無い辞退の仕方を聞くために天野先生に相談すると、先生は「アメリカの名門大学から日本人の貴方にそんな招待状が来るなんて、大きな名誉です。会社人生では通常あり得ないチャンス。ぜひ全力で挑みなさい。ただし私から2つアドバイスがあります。第1点は、スピーチすることは、高校野球の甲子園大会のようなトーナメント戦への出場です。良いスピーチには大学で需要があります。内容が良ければまた別の大学から声がかかり次があります。ダメならそれっきり。だから、今回のチャンスは一度きりとよく理解して、悔いが残らぬよう全身全霊で打ち込みなさい。2点目は、スピーチが終了しても50%と思いなさい。残る50%はその後の聴講者より質疑応答。一番嫌な厳しくて困る質問をできる限りあらかじめ考え、自分の回答を準備しておきなさい」と助言した。

「それから約2ヶ月間練りに練って話の流れを構成し、関西風のジョークも盛って、分かりやすいよう添削をアメリカ人に頼んで完成した脚本を、何百回も声を出して練習しました。本番での鋭い質疑応答にも、準備のおかげで無事にこなし終了。各々の講演終了後、すぐに各スピーカーへの評点表が聴講者全員に配布され、一回一回会場で回収されます。後日、大学より集計結果が届きました。それには『貴方への評価は、ランキングでトップです』と書いてあったのです」。その後現在に至るまで、年商6億に過剰在庫8億円で撤退寸前の窮地を脱し、独自のアプローチで1000億円を超え成長を続ける「アメリカン・ドリーム」を想起させるストーリーを、UCLA、USC、UCIなどの大学と大学院、NY/Dallas/LA/OCのハーバード・ビジネス・スクールAlumniのトップ・エグゼクティブ、ネバダ州の合衆国空軍、JBAなどで10数回もスピーチを行うチャンスに恵まれた。「USC Marshall(MBA Program)の教授から御声掛けいただいたケースでは学部長自らによる事前の面談試験がありました。年間で5万ドル以上もの高い授業料を支払い、バリバリと活躍する社会人学生たちは、勤務時間を削って出席するので不満な内容であればすぐクレームする。だから、いくら評判が良く誰からの推薦であろうとも、学部長自らの目で確認する選考プロセスを設定しましたと。また、ある大学院では、最初講堂に集まった出席者が3割程度とガラガラでした。その大学の部外講師の授業では、いつも隣にある図書館や食堂で学生たちは勉強しながら待機していると。出席者がスマホで仲間に内容が面白いと伝えたので、開始5分までに次々と受講者が増えあっという間に満席となりました。どのスピーチでも、聴講側も真剣そのものでいつも厳しい洗礼を受けます。お招き頂いた際は、受講者に絶対に実りのある時間とするように、常に気を引き締めて全力で臨みます。アメリカ組織の経営者となった現在、幅広く数々のデータや情報を集めその背景や原因を分析し、市場の今後の動きを予測し次の指手を日々考えています。まさに、天野先生の言われた卒論のエピソードと大学の研究室での数々の教えを日々オフィスで実践しています。私にとって天野先生は、人生の大事な師です」

米国赴任
暗雲のスタートから好転へ

 1992年、水谷さんはアメリカに赴任。当時の日商岩井のタイヤ部門の課題は二つ。買収した倒産寸前のアメリカの現地卸会社の再建と、もう一つは、毎月撤退が議論されているNITTO TIREのアメリカ販売の再構築。前者の買収した卸会社を黒字化することこそ叶わなかったものの、一方のNITTO TIREはタイヤ業界で世界的に知られるとおり、アメリカでの〝巻き返し〟で大きな成功をもたらした。しかしそれは後々の話。渡米早々、水谷さんが舵を取ったNITTO TIREの再出発は、サンノゼの治安の悪い古ぼけた倉庫の一画から、お先真っ暗のスタートだった。「92年にアメリカに来た時、NITTO TIREは販売不振と一年以上の過剰在庫を抱えた大赤字で、毎月の会議で経営陣は清算してブランドから撤退するべきかを真剣に討議していました。その翌年93年も黒字化の目途が全く立たなかった。当時のNITTO TIREの知名度は低く、片っ端からいくら電話しても相手にされず、アポも全く取れず顧客と話さえできない。かかって来ない電話を毎日待ち続けてもこのままでは最期を待つだけ。50州にあるタイヤ販売店に飛び込みで行こう!空港でその街の地図を買いイエローページを見ながら販売店に一つひとつ地図に印を付けて、飛び込みました。何とかやっとストアの主人に会えても、『Nittoなんて誰も知らない。以前日本で食べた最悪の悪臭がした”Natto”を連想する名前で大嫌いだ。まず名前を変えてから出直してこい』と辛辣な言葉を浴びせられたこともありました」
 94年に買収した卸会社は、いよいよ清算して行く方針が固まり、切り離されたNITTOTIREの部隊の2人がロサンゼルスの日商岩井の駐在員事務所に移転。その年の5月のメモリアルデー、水谷さんに大きな転機をもたらす出会いがやってくる。水谷さんとサンノゼから一緒に引っ越した社員の2人で、アナハイムにある小売店から招待を受け、ガレージセールのイベントに出向いてテントでプロモーションをしていた時のことだった。「日本人の男性が隣でホイールを販売されていました。彼のところにアメリカの若者がひっきりなしに集まり大変な人気でした。思わず話しかけました。私が商社から来た駐在だとわかると彼は『貴方は大手総合商社の人間なのに、メモリアルデーの祝日にこんなところでガレージセールスをしているのか。珍しく根性あるねぇ。今日は忙しいから相手はできないけど、興味があるなら来週オフィスに訪ねておいで』と言って名刺を下さいました」。この人物こそは、ホイール業界で車好きの若者たちに人気の高かったシビックやインテグラといったホンダ車ブームにいち早く目を付けた日本のホィール業界の先駆者アンディ安藤さんだった。「当時のカリフォルニアの若者のカーカルチャーの中でも特に盛り上がりをみせていたのが〝走り屋〟。アンディさんは、直線でタイムを競うドラッグレースが流行っていることも教えてくれました。『ホンダ車が人気を博し、日本のホィールがスゴく注目されている。でも、日本のタイヤ・ブランドは未だ何処も動いて無いなぁ。君が頑張ってみたら⁈』そんな世界があるんだ!もしかしたら、これは大きなチャンスかも知れない」。NITTOTIREは、アンディさんから教えて頂いたヒントで、車好きをターゲットにした商品展開を機に、ターニングポイントを迎えた。

 「アンディさんの案内で市場を走り回ってみると、当時のアジア系の”Enthusiasts”市場では、シビックとインテグラなどのホンダ車が圧倒的なシェアを占めていました。その背景には、保険とシリンダー・ヘッド。当時の日本の走り屋に大人気のスープラ等は、アメリカの保険会社の事故リスクの算定基準では、アメリカの若者には高過ぎて手が届かない。一方でシビックなどは、一般の方に人気で学生も通常の契約が可能と日本人”Enthusiasts”のトップ・ランナー葉山さんから日米の自動車保険事情の違いを教えてもらいました。ではなぜ、ホンダ車なのか?色々なツテを頼ってなんとかホンダのエンジニアの方からお話を伺う機会を得ると『創業者本田宗一郎さんの意向で、ホンダ車の搭載エンジンはサーキットでも走れる優れたものづくりをしています。シリンダー・ヘッドの冷却性が優れているからでしょう』と教えてもらいました」  

 ホンダ車の販売台数推移、上記のアメリカの保険の事情に、そしてホンダのエンジニアの方の解説などを詳しくまとめて、日本にわかりやすく説明した結果、ホンダ車の”Enthusiasts”にターゲットを絞った商品開発が加速していった。

 そして3年目の1995年度に会社はついに黒字になったが…。

<次号へ続く>

■TOYO TIRESとは
TOYO TIRES はユニークな発想と独自の技術力をもって人の心を動かす「期待や満足を超える感動や驚き」を追求し、ドライバーの理想の走りを実現するブランド。乗用車用タイヤをはじめ、ライトトラック用タイヤ、トラック・バス用タイヤと、フルラインで展開している。

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