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金丸一郎
Ichiro Kanamaru
インターネット関連会社 データアナリスト
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「手話というマジョリティとは異なる豊かな世界が身近にあったおかげで、考えるきっかけを得られたのは幸せなことだと思ってます」シリコンバレーにあるインターネット関連会社でデータアナリストとして活躍する金丸一郎さんは言葉を選びながらそう語った。
1982年福岡生まれ。両親は共にろう者で耳が聴こえない。父は強制不妊手術の被害者だが奇跡的に子供を授かり、生まれたのが金丸さんだった。2022年映画『コーダ あいのうた』がアカデミー賞作品賞を受賞したことでコーダという言葉が一気に認知を得たが、CODA(コーダ)とはそもそも「Children of Deaf Adults = 聴こえない親をもつ聴こえる子供」という意味。金丸さんはコーダである。小学1年の授業参観時、手話通訳者の同伴で目立つ母に帰宅後<もう学校に来ないで>と言い放ってしまったことは忘れられない。母を傷つけた後悔とやり場のない怒りが残った。
10才の頃の夢は手話通訳士。手話は身近にあったので呼吸するように体得した。日本で育つ子供が日本語を無意識に体得するように、手話は自然言語なので勉強せずとも自然に身につけることができるのだそうだ。中学1年時、朝が苦手で遅刻魔だった金丸さんに対し、担任は「親御さんの世話で遅れてくるのだろう」と誤解した。こういう誤解に時々事故のように遭う。「僕が生まれる前から両親は仕事をし自立して生活していた。僕がいなくても彼らは当たり前に生活できます。けれど周りはそう見ない。その誤解が歯がゆい」中高時代は卓球部。思春期には親とのコミュニケーションが激減し手話を忘れかけたことも。「手話は言葉なので使わないと忘れるんです」
「人生一度しかないから東京へ」2000年、東大入学。大学1年時『ろう文化宣言』という論文を読んで雷に打たれた。手話が一人前の言語であるとこの時初めて意識できたからだ。手話は単語をジェスチャーに置き換えたものであるという誤解が根強いが、真実は異なり、音声言語と同じ「言語」で独自の文法をもっている。言語学に興味が湧き研究者を志すも、修士課程で研究に行き詰まり断念。マイノリティがインターネットのおかげで生きやすくなる変化を肌で感じていた金丸さんは方向転換し、2008年インターネット関連会社の東京支社に就職。入社時から今まで一貫してサービスの品質向上のためのデータ分析に取り組み、エンジニアと共に改善する仕事に従事している。2017年米国本社に異動。
渡米前の2016年、ろう者による日本手話のクラスを社内で立ち上げた。多様性の尊重を謳う会社は彼の活動を積極的にサポートしてくれる。この会社で働き続ける理由のひとつがそれで、今年で活動は8年目に入った。「会社のサポートや手話通訳士の資格を活かして、今後も手話への理解が広まる活動をしていきたいです」。
(6/20/2023)
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イチロー!ファイティン!
懐かしい顔をみかけびっくりしました
お元気そうで良かったです