黒人で初のアカデミー主演男優賞受賞 シドニー・ポワチエ逝く

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アメリカ101 第117回

 

1950年代から60年代にかけてハリウッド映画界を席巻したシドニー・ポワチエが今月6日亡くなりました。享年91歳でした。有名な大スターとして数々のヒット作に出演して話題となった俳優は数知れず存在するのですが、ポワチエのような「特別の存在」はごく限られた人々です。そしてポワチエは何よりも「先駆者」(trailblazer/pioneer)として映画史、そしてアメリカそのものの歴史に名前を残すことは間違いありません。   

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その特異ぶりは、訃報が西インド諸島の島国バハマの首相府報道官によって明らかにされたことに表れています。亡くなったのはロサンゼルスの自宅です。ここには映画関係者をはじめとして有名人が数多く住んでおり、通常であれば代理人や親族、あるいは友人を通じて明らかになるのですが、ポアチエの場合は、遠く離れた一国の政府当局者がAP通信に連絡して、初めて公になりました。トマト栽培の季節労働者だったバハマ出身の母親が滞在していたフロリダ州マイアミ生まれで、アメリカとの二重国籍者なのですが、それにしても一国の最高行政府の発表というのは、ポアチエが同国にとって“人間国宝”的存在であったかを物語っています。   

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また母国バハマが立憲君主制国家であり、イギリス連邦加盟国であるために、君主エリザベス女王から大英帝国勲章のひとつである名誉ナイト・コマンダー(KBE)爵位(ナイト)の称号を授かっています。さらにアメリカでは、2009年にバラク・オバマ大統領から、文民(シビリアン)としては最高位の名誉である大統領自由勲章を授与されています。   

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そして“本業”の映画界では、1963年に「野のユリ」(Lillies of the Field)で、黒人としては初めてのアカデミー主演男優賞を受賞しただけでなく、2001年には、ハリウッド映画での黒人の地位向上に貢献したとしてアカデミー名誉賞も受賞ました。   

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このような輝かしい功績は、単に卓越した演技者としてではなく、1950年代に映画界にデビューして以来、一人前の血の通った人間としての黒人を演じるという一貫した信念に裏付けされた映画人として、実社会でも、この時期からの黒人をはじめとする有色人種の地位向上を目指す公民権運動への活動家としての関与も評価されています。その点では、70年以上にわたり交友のあるハリー・べラフォンテ(94)と軌跡を同じくするものです。   

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二人とも西インド諸島系(べラフォンテは両親がジャマイカ系)であり、第二次世界大戦で軍務につき、戦後はニューヨークの黒人演劇集団であるアメリカン・二グロ・シアター(ANT)で共に学ぶという経験を通じて、生涯交流を続けました。べラフォンテはジャマイカの音楽カリプソを歌って大ヒット、フォークソング運動にも参加、さらには映画にも出演するなど、ポアチエに匹敵するアメリカを代表するエンタテーナーとして互いに切磋琢磨を続け、公民権活動家として高い評価を受けています。   さらにポアチエは演劇人としても、シカゴの黒人一家での葛藤を描いたロレイン・ハンズベリーの名作戯曲「陽なたの干しぶどう」(Raising in the Sun)のブロードウェー舞台劇(1959)と映画化作品(1961)で主役を演じ、舞台俳優としても活躍してきました。   

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「手錠のままの脱獄」(TheDefiant Ones,1958)、「夜の大捜索線」(Inthe Heat of the Night,1967)、「招かざる客」(Guess Who’s Coming to Dinner, 1967)などは、何回見ても飽きない名作です。 

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著者/ 佐藤成文(さとう しげふみ)

通称:セイブン

1940年東京出身。早稲田大学政治経済部政治学科卒。時事通信社入社、海外勤務と外信部勤務を繰り返す。サイゴン(現ホーチミン市)、カイロ、ベイルート、ワシントン、ニューヨーク、ロサンゼルス各支局長を歴任し、2000年定年退社。現在フリーランスのジャーナリストとしてロサンゼルス在住。


(1/14/2021)

 

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