反逆のアントニオ猪木

燃える闘魂アントニオ猪木が亡くなった。79歳だった。13歳で家族と共にブラジルに渡り、コーヒー農場などで働く。現地の砲丸投げで優勝した際、ブラジル遠征中の力道山にスカウトされプロレスの道に。日本プロレスに入り、60年プロ野球から転向してきたジャイアント馬場さんと同時デビューした。72年に新日本プロレスを立ち上げ、その後のプロレス全盛時代を築いた!

猪木さんの死に接し改めて「人間アントニオ猪木」を考えてみたい。

 

 

彼の人生は反逆とサービス精神の生涯だったのでは。力道山を継承した王道プロレスのジャイアント馬場に対して、独立した猪木は常に逆の行動に出てゆく。当時昔ながらのお約束的な日本のプロレス界に対して、刺激的なリアリズムをマットに持ち込んだのだ。今までのプロレスに対して閉塞感を感じていた若者たちは熱狂的に猪木プロレスを受け入れた。

その社会現象と熱気は、東映の仁侠映画、高倉健の代表作『昭和残侠伝』に見られるヤクザの美学に対して、深作欣二監督の菅原文太主演『仁義なき戦い』の登場に似ていると感じた。私は高倉健的な耐えに耐え、最後に一人で殴り込みに行くヤクザの美学が大好きだったのだが、世間はリアル(実話)な拳銃で打ち合う暴力団の抗争に惹かれたのだ。私は猪木ブームに乗り切れず一人蚊帳の外状態だった。

アントニオ猪木には時代を読む嗅覚があった!話題になれば、タブーとされていた異種格闘技も積極的に企画した。「熊殺し」の異名をとるウイリー・ウイリアムスとの対戦の他、中でもプロボクシングの世界ヘビー級チャンピオン、モハメドアリとの一戦は大注目され世界各国に中継された。試合内容はストレスを感じるものだったが、それよりも猪木の、アリ陣営との交渉力や人脈の凄さには驚いた。まさか試合が実現するとは世界中が思いもしなかった。あの日以来、猪木の頭の中は常に「何かをしでかしたい」と考えていたのでは。北朝鮮でプロレスを決行したり、参議院議員になったり・・・。 私的には大した政治的実績を感じないのだが、その後政治家を目指すスポーツ選手や芸能人への門戸を開いたことは事実だ。

改めてアントニオ猪木から学ぶものは何か。「既成概念なんか持つな!大風呂敷を広げろ!結果に責任はとるな!やったもの勝ち!そして元気があれば何でも出来る!」難しいこと言って無い。これが猪木なんです。

それにしても元気な時に闘魂注入でビンタやってもらえばよかったな!一度チャンスがあったが痛そうなので断っちゃいました!後悔しています。永遠のライバル、タイガー・ジェット・シン寂しがるだろうな。 

 

■テリー伊藤
演出家。1949年、東京都出身。数々のヒット番組やCMなどを手掛け、現在はテレビやラジオの出演、執筆業などマルチに活躍中。

 

 

 

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