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  • 【11/14(木)~11/21(木)】 AFIロサンゼルス国際映画祭

    2019年11月06日 Los Angeles

    良質なアメリカ映画やテレビ番組の保存、俳優育成などを行う非営利団体AFI主催の映画祭。 この秋注目のハリウッド映画がワールドプレミアされる他、日本からも出品予定。 映作など詳細は上ウエブで確認を。 チケットは$12~。

  •  「カメラを止めるな!」より面白い

    2019年10月03日 テリー伊藤の東京チャンネル

     映画界2018年最大の話題作となった上田慎一郎監督。 「カメラを止めるな!」制作費300万円、動員数220万人、興行収入31億円突破となったことは記憶に新しい。 その上田監督にお話を聞いた。もちろん新作を見させてもらってからの対談となった。(「アサヒ芸能」での対談)

  • 【8/23(金)~8/25(日)】 ピンク・マルティーニとオーケストラ  

    2019年08月22日 Los Angeles

    ハリウッド映画黄金時代のジャズバンドを思わせるスタイルで人気の音楽集団ピンク・マルティーニとロサンゼルス交響楽団によるコンサート。 クラシックジャズからサンバなど世界各国のワールドスタンダードまで世界の音楽ファンを魅了する演奏は必見。 チケットは$14~。   ●Hollywood Bowl ●2301 N. Highland Ave. Hollywood ●(323)850-2000 ●www.hollywoodbowl.com  

  • Weekly LALALA 対談シリーズ Eugene’s LIVE TALK 野村 祐人 × 鈴木 一真 「新たに湧き立つ役者魂」    

    2019年08月20日 らららトピック

    野村祐人:一真くんと出会ったのは1994年だから、もう25年前? 時が経つのは本当に早い!   鈴木一真:その頃、僕はモデルの仕事をしていて、俳優に転向しようと思い立ち、この先生から演技を学べば個性を伸ばせると評判を聞いて入門したのが奈良橋陽子さん主宰のUPS(アップス)アカデミーでした。それが祐人との出会いでした。   野村:僕が二十歳の時に主演した映画『800(はっぴゃく)』(94年)の廣木隆一監督の次の作品が、一真くんのデビュー映画作品『ゲレンデがとけるほど恋したい』でした。僕は廣木監督と仲が良かったというのもあってその作品には出演してないけど、打ち上げに呼ばれて一緒に飲んだのを覚えています。そこから一真くんは、日本で役者の道を歩んできたわけだけど、4年前には文化庁新進芸術家海外留学制度で渡米して、ロサンゼルスを拠点に活動をスタートしました。LAではどのような活動をしていたんですか?   鈴木:本格的に英語での演技の勉強をしたいと思って1年間文化庁のプログラムでLAに来ました。その1年はアクティングスクールで学んだり、劇団に所属してプロモーションや照明など舞台の手伝いや、真田広之さんやマシ・オカさんなどハリウッドで活躍する方々からお話を伺ったりもしました。また、ご縁があってファッションショーの演出も経験しました。   野村:LAをはじめハリウッドでの経験を日本のエンターテイメントに役立てようということですね。   鈴木:そうなんですけど、1年間の研修期間を終えてみて、まだまだ勉強が足りないなと感じました。役者としてはもちろんですが、この機会に徹底的に英語を学びたいと思いました。僕は高校を中退してこの世界に入ったので、これまでの自分の実績を論文にして高卒の資格を取得できる制度を利用し、サンタモニカカレッジに入学して勉強していたのですが、それでも足りなくて他のカレッジにトランスファーして卒業しました。   野村:その行動力はすごい! 年齢を重ねて、仕事やプライベートで忙しくしていたら、なかなか大学で学ぼうなんて本当に難しいと思う。   鈴木:アメリカの大学は若者だけじゃなくて、幅広い年齢の学生やいろんな国の学生がいるからすごく刺激をもらいましたね。それでもまだまだ英語力が伸びないから、卒業後は週に1、2本は様々なオーディションを受けたり、インディーズ映画やショートフィルムに出演して鍛えています。   野村:いやぁ、自分では気づいていないだけで、絶対に英語力は上がっているはず。英語で台本を読んだり、セリフを覚えたりするのは大変ですから。   鈴木:先日の撮影現場では、もちろん英語のセリフだったんですけど監督が日本語を混ぜた芝居を見てみたいと言ったんです。それを監督が気に入って、言葉は通じなくてもけっこう伝わってくるよって言ってました。僕も久々に日本語で芝居をして、新鮮で楽しかったな。   野村:いいね、なんか楽しんでる。   鈴木:いや、もがき苦しんでるかも(笑)。   野村:僕も今その苦しみをオーディションを受けたりして、感じてるところなんです。先日は映画のオーディションで統合失調症の人を演じた。すごく惜しいところまで行ったんですけど、受からなかった。でも今また自分の中でふつふつと役者魂が復活してきた感じなんです。ところで、一真くんはアメリカでオーディションを受けていますが、情報はどこから得ているんですか?   鈴木:大作はマネージャーから連絡が来ます。インディーズ作品はアクターズアクセスというウェブサイトがあるので毎日チェックしています。コマーシャルやモデルのオーディションは専門のエージェントからですね。   野村:アメリカでの仕事をしながら、日本の仕事はどのように? 僕もそうだけど、海外に住んでいると日本とのスケジューリングって難しいですよね。   鈴木:この1年ほどはこちらでオーディションをたくさん受けているので、日本からのオファーはほとんど受けられていないのが正直なところ。日本の所属事務所が理解してくれているのはとても感謝しています。   野村:今、ハリウッドではアジア系の役者の需要が上がっていて、アジア人の役が増えてきているんですよ。『Crazy RichAsians(邦題:クレイジー・リッチ!)』といったアジア人だけが出てくる作品がヒットしたり、日本人役も『ラストサムライ』から少しずつ注目されるようになった。以前は、日本人役を中国人の俳優が演じていたりしていたけど、だんだんモラル的、文化的にも見直されて、本物の作品を作るにはやはり日本人は日本人が演じた方がいいという傾向になっています。本当にグローバルになってきてちょうど変換の時だと思うけど、これから挑戦してみたい役柄とか作品とかありますか?   鈴木:最近アクロバットを習っていて、もっとバク転、バク中、トルネードなどを極めて、アクション映画にも挑戦してみたいですね。それともう一つは、僕には日系三世のはとこがLAにいるんです。彼らは70代で、僕が子供の頃から憧れていたファミリーなんですが、第二次大戦中の辛い経験を僕に話してくれました。彼らのような日本人の血が流れていながらアメリカで生まれ育ち、辛くも逞しく生き抜いた方々を広く伝えていきたいという思いがあります。   野村:僕は、自分がプロデュースを手掛けた映画『終戦のエンペラー』のプレミア試写会をLAで行った際に、日系アメリカ人の方もいらっしゃって、様々な厳しい意見をいただきました。日本人としてのアイデンティティ、そしてアメリカ人としてのアイデンティティの狭間ですごくジレンマのある方もたくさんいると思う。「戦争」というテーマ一つ取っても様々な見方がある。そこには葛藤や憎しみ、悲しみがあったり、だけど友情や人情みたいな温かいものも生まれていたかもしれない。物作りをする僕たちが、映画というフィルターを通して人々の人生や歴史を伝える代弁者になれればなとは思います。  

  • 「映画通し生き方学んだ」 映画監督 落合 賢 / Ken Ochiai  

    2019年07月04日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ロサンゼルスを拠点に、日本とベトナムでもプロジェクトを展開する映画監督、落合賢さん。たとえ国がどこであろうと、映画作りや映画に携わるところすべてが「自分の居場所」だという。初めて映画を作った12歳のときからそれは変わらない。「小さいころから映画を作り続けていて、もう24年ぐらいになる。ずっと映画中心の人生を送ってきて、映画を通して生き方自体を学んだ」と話す。  映画作りの楽しさは一つ一つの過程にあり、頭の中にあるやりたいことを一つ一つ具現化していき、各スペシャリストのビジョンが徐々に加わりできあがっていくプロセスや観客と共有することを含めた一つの大きなうねりを楽しめるのだと、その魅力を語る。  日本の高校卒業後の2002年に渡米し、南カリフォルニア大学(USC)、アメリカ映画協会付属大学院(AFI)で映画作りを学んだ。これまで短長編合わせて30本以上の作品を撮っている。長編映画は計5本。3カ国を股にかけて活動していることもあり、なかなか目標の「年に1本の長編」は難しいというが、全米映画監督協会審査員賞、国土交通大臣賞、ヒューストン国際映画祭最優秀短編映画賞、札幌国際短編映画祭最優秀短編映画賞など数々の賞を受賞し、着実にキャリアを積み上げてきた。  映画制作の際に意識するのは、〝人と人とのつながり〟だ。「昔からそのテーマは変わっていないけれど、年を重ねるごとにつながりのあり方は変化してきている」と明かす。映画監督にとって一つ一つの作品は、その年年での自分のあり方や成長を記録する「柱につけた身長のキズのようなもの」だという。いろいろと折り合いをつけなければならない部分は出てくるものの、そのときの等身大の自分が作品に表れる。30代半ばになり、周りには第二、第三の人生を歩みだしている人もいる。家族を築く大切さを実感するようになり、「最新作では父娘のつながりを描くことに挑戦した」と語る。  ベトナムでの長期にわたる撮影を終えた現在は、住み慣れたLAに戻り脚本を書き溜める毎日だ。日本人として日本で生まれ育ち、20代から30代にかけて米国で学び、近年はベトナムで過ごすことも多い。そのクロスカルチャーを活かした作品を作りたいと考えている。スポーツものやミュージカル作品への挑戦や、まだ実現していない米国で英語の長編映画を撮ることも視野に入れている。  「映画は20世紀の芸術。21世紀の芸術、エンタメは何かと問われると、ゲームなどがあるがまだ映画に取って代わるものはできていないので、それを模索中」と、新たな分野の開拓にも意欲的だ。

  • 「米国空手界のパイオニア」 空手家、スタントマン 出村 文男 / Fumio Demura  

    2019年06月27日 ロサンゼルスで暮らす人々

         「Karate」という単語が世界に広まり、根付いてから久しい。ここ米国でも各地に各流派の空手道場が数多く存在する。在米50年を超える出村文男さんは、米国空手道のパイオニア的存在だ。27歳のころに渡米し、演武会やショーによってその知名度と人気向上の立役者となった。  「空手と柔道が混ぜられていて区別されていなかった」という当時、まずはロングビーチで演武会を開く。これが当たり、ブエノパークで空手のショーを始めた。後にスターとなるショー・コスギ、スティーブン・セガールなども出演していたこのショーが成功を収め、次にラスベガスへ場所を移した。通常、日本の空手演舞は寸止めのため相手が動かない。そのため当初は観客の反応が悪かった。そこで、大げさに吹っ飛んだり痛がるなど打撃が当たったような動きを加え始めると、真に迫る迫力が大人気となり、観客を呼び込んだ。この評判がきっかけとなり、出村さんは映画界へ足を踏み入れることになる。  1977年、『Dr.モローの島』に出演し、空手で鍛え上げた身体を生かしたスタントを披露。SAG(米国映画俳優組合)にも加入しオーディションを受け始めた。「英語ができないから受からない」状態が続いたが、後に大ヒット作となる『カラテ・キッド』との出会いがこれを一変する。主人公の少年にカラテを伝授する〝ミヤギさん〟役のオーディションへ行き、英語のセリフが多かったため断ってしまった出村さん。役はほかの俳優に決まったが、後日「ミヤギ役の俳優が空手ができない。スタントをやってほしい」と依頼を受け、スタントマンとして出演することが決まった。同作ではシリーズ最後まで〝影のミヤギ〟を務め、その他さまざまな作品でもスタントマンとして活躍した。  本業の空手道では1968年から道場をオープン。1973年には撮影中に心臓麻痺で倒れ、5年前には医療ミスにより脳溢血を起こす不運にも見舞われた。手足に後遺症が残り、今でもリハビリのため折り鶴を折る毎日。しかし空手への熱意は変わらない。一代で築き上げた糸東流空手道玄武会の支部は米国だけで約50あり、世界では23カ国に1万人以上の弟子を持つ。サンタアナの道場では自ら教えている。「空手の根本は人間形成。気配りができて、世の中に出て役に立つ人間を育てるのが武道」と、礼儀や精神面の指導に重きを置く。「まだまだ長くここでやっていこうと思っている。アメリカに来て自分の世界が広がった。来た当時は大変だったけれど来てよかった。これからも支部を増やしていきたい」。80歳目前の今も、情熱を燃やし続ける。  

  • 「意外性の発見楽しい」 声優 星埜 李奈  / Rina Hoshino  

    2019年06月20日 ロサンゼルスで暮らす人々

     今年5月、人気アニメ『ポケットモンスター』シリーズを実写化した『Pokémon Detective Pikachu(名探偵ピカチュウ)』が全米で公開された。ハリウッドが製作したこの作品で、主要キャラクターの一つ、ミュウツーを演じるのが日本人声優であることはあまり知られていない。  「昔のミュウツーのバックストーリーを読みながらリサーチした」と振り返る星埜李奈さん。オーディション合格の知らせを受けたときは「布団をかぶって踊ってた」というほど喜んだ。 「武器として作られた力強いモンスターなのに、どうしたら共存していけるのかを考えるような哲学的ですてきなキャラ。そこを意識した」と役作りを明かす。最終的には男性声優とのブレンドした声になっており、「神々しく、中性的な部分と人を包み込むような感じ」というキャラクターに仕上がった。  中学校2年のときに家族で渡米。現地の学校へ転入したため、学校では苦労した。「ことばのせいで、自分が言いたいことを言いたいように言えないのがすごく嫌だった」。自信を喪失し、人に嫌われたくないという思いが強くなりトイレでランチを食べていたことも。すばらしい先生たちや友達に恵まれていたものの、英語で心の奥底を打ち明けられるようになるには4~5年かかった。 高校卒業後、ようやく大好きな演技に没頭できる機会が訪れる。LAの演技研究所で基本を学び、シーンスタディーや即興のクラスなどを通して、日本語と英語では違うピッチでしゃべる必要があることも知った。  卒業後は「母国をもう一度知るきっかけを作りたい」という思いから、日本で2年間活動。しかし「自分は日本人でもないし米国人でもない」と、アイデンティティーの確立に苦しんだ。 その後、カナダを経て再び米国へ戻ると、2009年にLAで一からの再スタートを切った。ここでは何もない状態で始め、50のエージェンシーに声のデモサンプルを送った。 はじめはなかなかオーディションに受からなかったが、音のテイクを聞き直す、スタジオを借りて歌の宣伝材料を録音するなど、積極的だが地味な作業を重ねるうち、ブッキングは増えていった。  声優は、ビデオゲームやアニメなど媒体によってしゃべりを変える必要があり、「その世界に入れる楽しさがある」とその魅力を語る。キャラクターになりきって演じていると「自分にこういう部分があったんだ」という意外性の発見があるのも面白いという。 「差別もあるし、悔しい思いもたくさんする。失敗も多いけど、赤っ恥をかいて這い上がるのが私」。 自信を失い、そして取り戻したこの国で、母国で創られた作品に携わる幸せは格別だ。

  • DNAに導かれ“衣”の道へ ワードローブ/ スタイリスト/衣装製作 石井 宥己子 |Yukiko Ishii  

    2018年12月06日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ワードローブ兼スタイリストの石井宥己子さんが主に手がけるのは、CMや雑誌、ショー、映画撮影衣装、舞楽・雅楽などの装束や歌舞伎の着付けだ。着物や和装が中心だが、洋服も扱う。子どものころからなぜか「布に惹かれた」。着物が大好きな母の影響もあり、とにかく布に触れたり見るのが大好きで、着物の帯には特に魅力を感じた。ファッション的要素だけでなく文化的・宗教的背景や歴史にも興味を持ち、将来は衣食住に関する職に携わる気がしていたという。学生時代は映像を専攻するかたわら工房で染色を学び、古典的な着物作りも学んだ。  曾祖父は明治時代、神職の資格を取った人だった。その曽祖父に育てられた祖母にとって御神体は神聖であり大切な物。石井さんは祖母がひっそりと静かに祀っている姿を見て育った。「祖母にはとても可愛いがられたのですが、思い出すのはやはり手を合わせ祈っている姿。幼心に着物や布に神聖なものを感じてたのかも。 そして、布には信仰とつながる意味がある」。最近になって曾祖父について詳しく知ったという石井さんだが、そのおかげですべてが「腑に落ちた」と話す。それまで深くは考えずに興味が沸き起こり、縁があって習った装束、舞楽や雅楽などすべて神道に関わりがある。着付けを習った歌舞伎も神道と深く結びついている。〝衣食〟という言葉は平安時代にはすでにあり、〝衣食住〟は後付けで江戸後期、明治から出てきたことば。〝衣〟は人にとっては大切な意味合いを持る。信仰的な意味を踏まえた背景や歴史や文化があり、本当に面白い」。体の奥深くに宿る曽祖父のDNAが、幼い石井さんを〝布〟へと向かわせたのかもしれない。  ロサンゼルスへやってくると、当初は一連の活動から離れてしまったものの、徐々に着付けなどの依頼が入るように。現在は人気歌手・中島美嘉のドレス製作、グラミー賞ラテン部門受賞バンドのメンバーの衣装製作、ハリウッド映画『ゴジラ』のプレミアでの着付け、インド・スリランカ合作映画のワードローブなど日米で活躍中だ。アシスタントとして参加したユネスコ文化登録の子供歌舞伎では、市川団十郎の専属着付け師から多くを学んだ。「米国では着物に興味を持つ人や、いろいろな文化背景がある人たちに着てもらうことが多い。その人に似合うように意識して着付けをしています。そして楽しんでもらいたい。そのためには自分自身が学んで知っておく必要がある。その上で着物をアレンジができれば」。いつかは日本的な要素を生かしてハリウッド映画に携わりたいといい、常に学ぶ姿勢を忘れず「和」を伝えるため 〝衣〟道に精進している。

  • キーワードは“夢” プロデューサー/ アートディレクター 髙野 力哉 |Rikiya Takano  

    2018年11月28日 ロサンゼルスで暮らす人々

     「夢は大きく、心は優しく」。映画プロデューサー/アートディレクターの髙野力哉さんが心の中に大切にしまっていることばだ。小学生時代、洋画好きの父の影響もあって興味は自然に映画へと向いていった。唯一観ていた邦画が『釣りバカ日誌』シリーズ。テレビで偶然観てから、主演俳優の西田敏行さんの作品を鑑賞し始め、気づけばファンレターを何通も送るほどの大ファンになっていたという。ある日、一通の封書が髙野さん宛に届いた。中に入っていたのは冒頭のことばが書かれた西田さんからの直筆サイン色紙。「難しいことばではなかったし、素直に心に響いた」というこのことばを、これまでの人生でずっと励みにしてきた。  映画に携わりたいという気持ちは小学生から一貫して変わっていない。初めての映画制作は小学校の授業の一環で監督を務めた作品だった。以降、学園祭用の作品に役者として出演したり、脚本を書いたり編集をしたりと、さまざまな形で毎年1本は映画作りをするようになった。将来の道が決まったのは、中学校3年生のとき。文化祭で17分間の米国ドラマのパロディを制作した。監督、脚本、編集などほぼすべてをゼロから自分の手で行い、上映が終わった瞬間に大きな達成感を感じたという。「あのときに、企画を立て、話し合いを重ねて計画を詰めていくことにやりがいを感じる自分には制作が向いていると気づいた」。以来、ずっと一つの夢を追い続ける。  ロサンゼルスへやってきたのは2015年のこと。ハリウッド映画『ラストサムライ』を観て衝撃を受け、俳優・渡辺謙さんの活躍を見て「日本人でも米国で活躍できる可能性があるなら、本場のハリウッドで挑戦したい」という思いが芽生えた。LAではCSUノースリッジ校で映画制作を専攻し、アートディレクターとして参加した卒業制作作品『アマール(Amal)』は大学代表作に選出された。現在は制作会社に所属するかたわら、フリーランスとしても活躍。TVシリーズ『Musashi』やNetflixのTVショー『Hyperdrive』など複数のプロジェクトに携わっている。「撮りたいのはノンフィクション映画。実話を元にしている作品は人生を語るものが多く、観る人は自分の人生を照らし合わせる。一本の映画で人生の選択肢を与えるような作品を作りたい。観た人がメッセージを感じてくれ、考えさせることができればと思う」。キーワードは〝夢〟。自身が西田さん、渡辺さんからインスパイアされたように、だれかにとって夢の実現や将来につながる何か、あるいは勇気、元気を与えたい。髙野さん自身の夢は、そんな作品をプロデュースしていくことである

  • 色重ね「世界一に」 メイクアップアーティスト 樫部 翔一郎 |Shoichiro Kashibe  

    2018年11月14日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ハリウッド映画やテレビの撮影、ファッション、ビューティーがあふれるロサンゼルス。そんな街で暮らして6年になる樫部翔一郎さんは「きれいなものを作ることにすごく執着心がある」と話す。人の顔というキャンバスに美しい色を重ねていくメイクアップアーティストが生業と聞けば、それも納得がいく。現在、『SOLSTISE』や『XIOX』といった雑誌撮影やダイヤモンドのブランド『Rahaminov Diamonds』などの仕事を中心に活動中だ。  メイクの仕方は、シーズンやディレクターのイメージによって変わってくる。現場へ行ってからコンセプトを聞くこともあるが、インスピレーションに従うようにと言うカメラマンもいるという。「そういうときは、モデルの顔などを見てどういうメイクが合うかとか、何を着るかによって方向性を決めます」。モデルの顔や服を見ていると、色やどういうブレンドをしたら合うかが、映像となって頭に浮かんでくるのだという。「スッと、来ます。イメージが沸かなくて苦労したことは今のところはないです」と話す。  幼少期から漠然と米国に住みたいというあこがれを持っていた樫部さん。中学3年のころ、ハリウッド映画『死霊のはらわた』を観て「お金を貯めてアメリカへ行って、絶対に特殊メイクの仕事をしようと思った」といい、洋楽と洋画に大きな関心があった学生時代、英語はクラスでトップになるほどだった。高校卒業後はフィリピンに半年間英語留学。翌年からLAのメイク専門学校で4カ月間勉強し、帰国後に東京へ。造形工房に就職して念願の特殊造形の仕事を始めた。しかし、自分が本当にやりたいこととは違うと徐々に感じ始め、24歳のときに再びLAへ戻ってきた。3年ほど前、特殊メイクからビューティーのメイクアップに路線をスイッチするきっかけとなったのが、子どものころから好きだったペイント。「特殊メイクよりも着色していくほうが自分は力を発揮できると思ったんです。自分は美的感覚が人と違う感じがあると思うので」。また、ペイントがメイクの助けになることもあるという。「二次元の世界でリアルに物を作れると、三次元の世界でも簡単に作れる。メイクに反映するというか。造形でもボディペイントでも応用が効く」と、趣味もスキルアップにつなげるポジティブさを持ち合わせる。  メイクアップ業界の中でも特に競争率の高いというLAで生き残っていくことは、至難の業だ。メイク専門学校の同級生でも、未だこの仕事を続けているのは樫部さんを含む数人だけ。「長男じゃないのに〝一〟をもらった」という名前には、両親の「飛翔しナンバーワンになってほしい」という願いが込められている。その期待に応えるべく「世界一のメイクアップアーティストになる」ため、これからも色を塗り重ねていく。

  • 作品通して伝える 次世代への想い 映画監督 光武 蔵人|Kurando Mitsutake  

    2018年09月20日 ロサンゼルスで暮らす人々

     映画監督、光武蔵人さんの売りは「米国にいることを武器に低予算日本映画をLAで撮影する」こと。キャストからクルーまで全員を日本からアメリカに呼びよせれば人件費は膨らむ。しかし土着のクルーが撮影を行えば費用を抑えることができる。これまで監督した長編映画3作はいずれも日本では全国順次公開されているが、目標とするハリウッド映画での監督は「まだ遠い」という。外国籍の監督がオファーを得るには、母国での全国同時公開規模の成功が必要。「今はちょうどキャリアの転換期。フェーズ1ではそこそこ成績を残せた。次は日本で全国同時公開規模の映画をやりたい。それをフェーズ2とするなら、フェーズ3はいよいよハリウッドに呼ばれてやるというのが僕の野望」と語る。現在はエージェントから打ち合わせに呼ばれることはあるものの、なかなか次のステップに進めないのが悩みだ。  映画に興味を持ったのは、子ども時代にテレビで毎週放送されていた洋画劇場。もともと〝お話を語る〟ということに魅力を感じていたといい、物心ついたある日、スピルバーグ監督の『激突』という映画をテレビで観て感化され「映画に取り憑かれてしまった」。80年代、90年代の当時はレンタルビデオバブルの時代。圧倒的に本数が多かったのは米国映画で、漠然と「米国で映画の勉強を」という思いを抱いていた。渡米は高校生のとき。高校1年を日本、2~3年を米国で学べるという学校の新聞広告を父が見つけたことから実現した。高校卒業後はサンフランシスコの芸術大学に進学、映画学科で2年間勉強し、大学3年からはバレンシアの大学へ。大学院まで修了すると日本のコーディネーション会社を経て独立した。実は、2010年には一度、活動拠点を移すため日本へ帰国している。しかし東日本大震災をきっかけに再びLAへ戻ってきた。  これまでの作品では「人は負けるかもしれない戦いにあえて挑むべきときがある」というメッセージがメインテーマだ。「歯向かうとか抗うのは大事なこと。右向けと言われて右向くだけの人生よりも豊かになる」。70年代、80年代のアクション映画の基本はモラル・テールだったが、最近は映画産業の商業主義化によって豊かさが減少し、かつてのような個人のビジョンやメッセージ性のある作品が少なくなっていると光武さんは考える。「若い人に、僕の作品の中でそういうことを感じ取ってもらえればいいかなあと。昔の映画は、そういうことを僕らに教えてくれたと思うんですよね。大事なことは映画で教わったというか」。  次の世代に、自らの作品を通して大切なことを伝えたい。そんな思いを胸に、大好きな映画と向き合っている。

  • 「客席のエネルギー満たす映画づくり」 映画監督 北村 龍平 |Ryuhei Kitamura  

    2018年05月10日 ロサンゼルスで暮らす人々

     6人の大学生を乗せた車が、荒野のど真ん中を走っている最中にパンク。修理を始めた学生たちは、この事故が単なる偶然ではなく、タイヤが何者かに撃たれたことに気づく。やがて見えない敵からの狙撃が始まり……。あらすじからでさえスリル感が味わえるホラー映画『ダウンレンジ(Downrange)』。自身の新作である同作品がロサンゼルスでプレミアを迎えた北村龍平監督に話を聞いた。  「僕がホラーやスリラー映画を撮る時は、予測不能な動きをするジェットコースターに乗ったようなスリルを味わえるものを作りたいと、常に思っているんです。映画はエンターテイメント。スクリーンに向かっている間は時を忘れるほど楽しめて、終わった時には爽快な気分を味わえる。観客に何かしらのエネルギーを与える力が無いと、それは映画とは言えないと僕は思うんです」  99年に渡部篤郎主演『ヒート・アフター・ダーク』で監督デビュー。『VERSUS(ヴァーサス)』(01年)はトロント国際映画祭のミッドナイトマッドネス部門で北米プレミア上映されるなど世界的に高く評価され、『あずみ』(03年)、『ゴジラ FINAL WARS』(04年)と立て続けに大作のメガホンを取った。10年前に渡米。ハリウッドでの第一作目『ミッドナイト・ミート・トレイン』(08年)を製作以降、ロサンゼルスを拠点に活動を続けている。  「5年前に久々に日本で監督した実写映画『ルパン三世』は、僕にとって大きな挑戦でした。国民から大々的に支持されるルパン三世は偉大なプロジェクトでプレッシャーも大きかった。それでも監督の仕事を受けたのは、常に違うものを作りたい、逆境をどう乗り越えるかのチャレンジをし続けたいという気持ちからでした。そしてそのルパン三世の後に撮ったのが今回の『ダウンレンジ』。前作品とは真逆の、自分の原点に立ち返るものを作りたかった」  20年ほど前に3000万円の低予算で撮ったインディーズムービー『ヴァーサス』。無名で金もなかった時代に周りに反対され、借金もして、それでも山にこもって撮った同作品は自身の原点。大きな看板がなくても自分にしか生み出せない作品でいつでも世界で勝負できる自信があると話す。  ハリウッド映画を観て育ち、17歳の頃から「自分が作りたいものを作る」ことだけを見つめて突っ走ってきた。その焦点は1ミリもブレることはない。「自分のやりたいことに対してどれほどの情熱を注げるか・・・。僕のやりたいことは、最高だと思える映画、オーディエンスに楽しいと思ってもらえる映画を作ってお金を稼ぐという極めてシンプルなことです。極端なことを言うと、やりたくないことをやってまで生きていたくない。でも死にたくないから一生懸命にやる。モチベーションてそういうものだと思うんです」。