連載・コラム あの時何が起こった!?

編集: Weekly LALALA - 2019年10月04日

手記 ケース2DUI : プロベーション期間中の3度目」 後編

ウエスト・ロサンゼルス在住 JTさん(男性)

 

3回目のDUIで逮捕され、まず最初にわかったのは、私が出廷するのはコンプトン裁判所であること。1ヶ月に一度は出廷して検察官などお役所の人たちと話し合いを持たないといけないということ。しかし、ショックだったのは、あまりに裁判にかかる人が多すぎて順番待ちのため、自分の裁判が終了するのは5ヶ月先!まだまだ先の話だということだった・・・。

 

<前編よりつづく>

 そのDUIで逮捕された5年前、ちょうど私は自分の会社が債務を負っていた状況下で、金銭的にも全く余裕もなく、保釈金など払えるはずもなかった。それが一つの理由だったが、三度目の失敗の罪を償うことを心に決めた。そしてカウンティジェイルでの生活が始まった。

 

 裁判判決が出るまでの5ヶ月間、私が寝泊まりしていたのは、あのテーマパーク、シックスフラッグス・マジックマウンテン近くにある郡の留置場。そこから月に一度、コンプトンの裁判所に出廷することを言い渡された。私は最終の判決が出るまで、この留置場から裁判所に5回ほど通った。

 

 私が収容されたのは、刑に処された人が入る刑務所(プリズン)ではなく、判決待ちの人などが入る短期間の留置場(ジェイル)ではあったが、本当にたくさんの人が収容されていた。巨大な敷地は、いくつかの棟に分けられていて、ノース棟、サウス棟、そして私がいたスーパーマックス棟で構成。一つの棟に5万人ほどがいて、部屋がたくさんある。各部屋には2段ベッドが置かれ、一部屋に60人が寝る。留置場内では収容者用の色分けされた服を着用するのだが、私のような軽犯罪者はブルーの服、重犯罪者は映画やドラマでもよく見るようなオレンジ、怪我人や病人は茶色など、細かく分かれていて他の色もいくつかある。

 

 ここにはギャングの人たちもたくさんいたし、ショッピングモール内でスケボーに乗ってセキュリティに捕まり、裁判に行かなかったことで10日間拘留という、やってはいけないことだが重犯罪と比べたら本当にささいなことで入っていた青年。交通違反で裁判に出廷していなくて、旅行から帰ったところを税関で捕まり、そこから直接ジェイルに護送された人というのもいた。

 

 留置場内は、夏は冷房、冬は暖房と快適に過ごせる気温が保たれているし、三食用意され、テレビもある。その他は何もすることがないので、究極に退屈だ。ただ、ここに来てよかったと思うのは、来る前より健康になったこと。以前は血圧も高くメタボ気味だったところが、留置場の食事ときたら食べ物に塩気はまったくなく、毎日豆を食べ、テリヤキが出てもうっすらとしか味のついていない病人用の食事に近いものが出る。インスタントラーメンを買ったとしても、熱湯を犯罪に使われないようにゆるま湯でしか食べられないので美味しくない。タバコも吸えないし、朝もちゃんと起きて、夜ちゃんと寝るために昼寝もしない。そんな規則正しい生活で血圧もかなり下がった。

 

 そんな生活の中で唯一、外出できるのが月に1回のコンプトン裁判所への出廷。これこそは1日が長く感じる苦痛な日だった。朝5時に起きて、3人一つのチェーンに繋がれてバスに乗せられ、LAダウンタウンにあるツインタワーに護送される。ここで各裁判所への仕分けがされる。またバスに乗せられ裁判所に着き、そこでまた長い間待って、話し合いに入る。ものの10分ほどで要件は終わり、またバスに乗ってツインタワーで仕分けされ、夕刻にマジックマウンテン近くの留置場(自分の寝床)に戻る。といったほとんど意味をなさない一日で終わる。

 

 5か月後の判決で裁判長が私に言い渡したのは、罰金などのほか、執行猶予4年、ロサンゼルス郡からの外出禁止。そのために1ヶ月に1回裁判所を訪れ指紋採取を行うことだった。4年間きちんと通った。しかし、同時期にビジネス上での訴訟に負けて自分が保有していた8万ドルも取られ、差し押さえにも遭った。

 

 そして先月プロベーション期間を終えた。そんな状況だったところから、私は手に職を生かして仕事を始め、今また一歩一歩着実に前に進んでいるのです。

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  • 手記 ケース2 <前編>

「DUI : プロベーション期間中の3度目」

ウエスト・ロサンゼルス在住 JTさん(男性)

 

    手記 ケース2 <前編> 「DUI : プロベーション期間中の3度目」 ウエスト・ロサンゼルス在住 JTさん(男性)  

    2019年09月25日 あの時何が起こった!?

    先月の8月で、5年間のプロベーション期間(保護観察期間)が終わった。50代半ばでDUIで逮捕された自分にとって、この5年はなんとか自分の人生を立て直そうと必死で働いた。一歩一歩ゆっくりではあるが、前を向いて歩きだしている。     追突した車が逃走!  3度目のDUIで逮捕されたのは5年前の2月のこと。ゴルフコンペの賞金が入ったので帰りに仲間とみんなでトーランスの居酒屋で食事して、わいわい賑やかに楽しい時間を過ごした帰りだった。もともとたくさん酒を飲めるほうではないので、付き合い程度に飲んで食事を楽しんだ後、夜7時には店をあとにした。帰りは運転し、家のすぐ近くのフリーウェイの出口を降りようとしたその時、すぐ後ろを走っていたジープチェロキーに軽く追突された。    私はフリーウェイの脇に乗り上げる形で停車。すぐさまポリスカーが来た。その若い警官が私に「君、大丈夫か? すぐにUCLAのホスピタルに行って、体に異常がないかどうか検査に行きなさい」と話しかけているその瞬間に、信じられないことが起きたのだ。私の車に追突したジープが免許証や保険証の情報交換も何もしないまま、スーっとその場から立ち去った。いや、立ち去ったわけじゃない。逃げたのだ。     事故後の身体(血液)検査で飲酒運転が判明  走り去るジープを見ながら、警官に「あの車だよ!あの車が追突したのに逃げようとしてる。捕まえてくれ!」と私は詰め寄った。警官は、「大丈夫だよ。車のナンバーもわかっているし、後でレポートできるから大丈夫」と私をなだめる。ああ、そうか。とその時は納得した自分だったが、それに納得したのがそもそもの間違いだった。彼はまだ警官になりたての新米警官で、あろうことか、のちの裁判で「後ろに追突した車など、いなかったことにしてくれ」と自分の対応ミスをもみ消そうとして、裁判を長引かせることになる。    まぁ、そのことは置いておいて、とりあえずその足で、私はすぐまた停車していたフリーウェイから車に乗り込んでむち打ちやケガなどの身体検査のためにUCLAホスピタルへ行った。そこで行われた血液検査で、飲酒運転と判定される0.08以上の血中アルコール濃度が出てしまったため、そのまま逮捕されてしまったのだ。     逮捕からツインタワーへ  3度目のDUI。過去2度のDUIによる10年間のプロベーションが終わるまであと7ヶ月のところだった。プロベーション終了間際で再び逮捕された。初回のDUIであれば、一晩だけ留置場に拘留されて家に帰ることができるが2回以上、さらにプロベーション期間内での再犯となると、そういうわけにはいかない。    病院で検査が終わるとすぐさま逮捕され、ロサンゼルス・ダウンタウンにある「ツインタワーズ・コレクショナル・ファシリティ(The Twin Towers Correctional Facility)」、通称ツインタワー(LAダウンタウンのBauchet ストリートにある2つの棟でできている建物)に護送された。    そこで知らされたことだが、まずわかったのは、私が出廷するのはコンプトン裁判所であることだ。さらに1ヶ月に一度は出廷して検察官などお役所の人たちと話し合いを持たないといけないということ、さらには、裁判が終了するまでにかかる期間は5ヶ月というまだまだ先の話であること(あまりに裁判にかかる人が多すぎるため、かなりの順番待ち)。    たしかに保釈金10万ドル、またはベイルボンドを利用してその10%を払えば保釈されて、家から裁判所に通うことができるが、そんな高額な保釈金なんてどうやってもその時の自分には、捻出できるわけもない。    私はこれまでの罰を受けるべく、5ヶ月間を塀の中で過ごすことを心に決めた。   <後編へ続く>

  • 手記 ケース1<後編>

「DUI : 刑務所暮らしを強いる実刑判決」

トーランス在住 S.Gさん(男性)

    手記 ケース1<後編> 「DUI : 刑務所暮らしを強いる実刑判決」 トーランス在住 S.Gさん(男性)

    2019年09月18日 あの時何が起こった!?

    自分が収監されたのはSupermaxと言う凶悪犯罪者や重犯罪の未決囚を主に収容する巨大施設であり、収容者数約7000名(当時日本人は私1人であった)。大きく区分けされたドーム状の部屋に7~80人が入る。鉄製の2段ベッドの真ん中に無理矢理ベッドを取り付けた3段ベッドに寝るのだが、下のベッドの人は身動きさえままならない。日々は、食べること寝ること以外はほとんどやることがない。せいぜい出所後に備えて体を鍛えるくらいだ。お菓子や日用品等の購入もできるが、現金は使えないので預けてあるお金の中から引き落とされる。   (前編 9月6日号より)  では、お金のない人たちはどうするのかというと、各々の得意分野を生かして商売をするのだが、絵心のあるものは便せんなどに、タトゥーを入れる図柄やイラストなどを書いて売る。中には、刑務所で支給されるシャツやパンツ、靴下などの備品を使って工芸品を作る人も。シャツの糸を一本ずつ解きほぐして取り出しそれをベッドの端などにくくりつけて他の糸と寄り合わせて紡いでできた丈夫な糸で、編み糸を作り、それを編み込んでネックレスや指輪、飾り物などの素晴らしい工芸品が完成する。それを購買日に、1~5ドルくらいで売る。買いたい人はどうやって支払うかというと、刑務所内での通貨代りとなるのがなんと購買することのできる袋のインスタントラーメン(主には、マルちゃんラーメンのスパイシービーフなどが人気)1袋がだいたい1ドルという価値基準である。   刑務所内でなんと酒を密造する人もいた。食事時に出るフルーツやジャム、ジュースなどを混ぜ合わせ発酵させて酒を作るのだが、これがなかなかうまかった。しかしある日、酒を精製する方法を知ってからは飲む気が失せた。というのも、フルーツやジャムなどを発酵させたものをろ過するために、なんと!靴下に入れてそれを絞っていたのだ。うわぁ〜である。   自分の刑務所内での立ち位置や分類のされ方として、大まかにはヒスパニック、白人、黒人の分類で分けられる。その中で、日本人である私はアザー(その他)である。それにより、食事をする場所やシャワーやトイレなども徹底した区分けがされ、それぞれの縄張りがあり(それを仕切るボスもいる)、それを犯せばリンチの対象ともなる。ここはやっぱり凶悪刑務所なのだと思い知らされる。   そんな刑務所で自分はあることをきっかけに先生をすることとなった。自分が若い頃にたしなんだ日本の武道の稽古の基礎練習をしていたときのこと。「それは何だ?」と、興味を示してきた人がいたので説明した。 「君たちはナイフやガンを用いて誰かをあやめたり、傷つけ怪我をさせたりしてここに来た人も多いと思うが、自分たちはこの指1本で相手を倒せる。 例えば『秘孔』と呼ぶ急所をつけばその瞬間は大したことがなくても数週間後、数ヶ月、あるいは数年後にはそこから神経が麻痺して腐ってきて終いには死に至ることもあるのだ。さらには武器を用いない暗殺技術なので証拠すら残らないんだ」と、まるで漫画の北斗の拳のような話をした。まるっきり嘘ではないが、まぁ八割方ブラフであるのは間違いない。 自分では冗談のつもりだったのだが、翌朝に10人余りの人間が手に手に朝食のバナナやりんごを持ってきて、弟子にしてくれ、俺にも教えてくれと人種関係なく人々が殺到。刑務所の中で一風変った稽古事を展開したのだった。 おかげでどのグループにも属さないアザーだった自分も、一目置かれることとなった。   とはいえ、70人余りの荒くれが暮らす房内はほぼ24時間唸りがするほどの騒音が絶え間なく続き安眠できることはまず無いし、常に何らかの危険にさらされている。やはり刑務所は刑務所、顔面や全身に地肌が見えないほどのタトゥーの入った輩がひしめき、1分1秒でも早くここから出たい解放されたいという数ヶ月を過ごした。   書けばきりがないのですが、全ては本当に経験したことであり、読んでいただいた皆様には、私の失敗話を他山の石としていただけたらと思います。飲酒運転は他者に対する危険をも伴いますし、万が一、捕まりかけたときには、ゆめゆめ逃げようなどとは思う事無かれ、と願います。  

  • 手記 ケース1「DUI : 刑務所暮らしを強いる実刑判決」

トーランス在住 S.Gさん(男性)

前編

 

    手記 ケース1「DUI : 刑務所暮らしを強いる実刑判決」 トーランス在住 S.Gさん(男性) 前編  

    2019年09月17日 あの時何が起こった!?

    それは5年前の3月某日のことでした。飲み会の後、すでに一度DUIで捕まったことがあるにもかかわらず未だ懲りずに車を運転していた時のことだ。ガーデナのウェスタンブルーバードの交差点を左折した時に、突然背後にポリスカーの瞬く光とサイレンの音、どうやら車線を外れていたらしい、しかし止まれば飲酒がバレる・・・やばい、どうする、また捕まってしまったら嫁さんや会社の人にも顔向けできん。    捕まりたくない。混乱とともに様々な思いが頭の中を駆け巡る。そして半ば酔っ払った意識がそうさせたのか、パトカーの停止命令に従うどころか、こともあろうに自分は思いきりアクセルを踏み付けていた。最悪の選択。そうそれがカーチェイスの始まりだった・・・。アメリカに住んで10年以上、テレビでもよく見るカーチェイス。ほぼ100%の逮捕率、よもや逃げ切れるわけなどないのは重々承知しているはずだった。    なのに始めてしまった。俺は逃げている。頭の中ではこれで人生おしまいだなというあきらめと、いや逃げ切れるかもというかすかな願いに似た思いが浮かぶも、不思議とまだ遅くないから今からでも止まろう、というまともな考えには至らない。半ばやけくそ、もうしょうがない、やっちまったんだ、今さら止まれるか、なるようになれだ!とばかりに逃げ続けた。今考えれば最低の行為であるのだが(-。-;。    短くも長くも感じた数10分の追跡劇の後、カーブを曲がり損ねスピンした車を前後からポリスカーに挟み撃ちにされ、めでたく?御用となった。気持ちはもう絶望というほかない。気がつけば周りには7〜8台の警察車両、運転席から出てみるとよく映画でみた世界。ライフルや銃を構えた警官が車のドアごしにすべての銃口を自分に向けている。赤いレーザポインターが自分の目線や体に当たっている。うわーっ、撃たれる!死ぬかも、そう思い両手を上げ2〜3歩前に出た瞬間であった。前方の警官が何かを発射した。その瞬間は今でも鮮明に覚えている。それは螺旋状にくるくると回りながら自分の胸に突き刺さり、瞬間的にだが、すべての身体機能が停止!そのままの姿勢で前向きに倒れたのだった。それがテーザー銃といわれるスタンガンの電気ショック銃であったのだ。今考えればそれが銃弾でなかったことが幸運というしかない。    通常のDUIであれば警察内の留置場に泊まる程度で釈放となる(その後の罰則や刑罰はそれなりに厳しいのだが)。まぁ要するに軽量犯罪扱いなのだが、自分の場合は、これにカーチェイスが加味される。この場合、英語でfelonyという重量犯罪となるのだ。留置場から通称ツインタワーと呼ばれる拘置所に送られ、そこから裁判所へと送られる。刑が確定するまでの数ヶ月は拘置所暮らしとなるのだ。    裁判の罪状認定では、例えば抵抗の意思がないのに問答無用のテーザー攻撃を受けたなど、自分にも些少の言い分はあったのだが、全て警察の言い分に対して「I agree (私が悪ぅございました)」と罪を認めたのだ。が、しかし、とりあえずの身柄の釈放は叶わず、出たければ保釈金約15万ドル(日本円で1500万円)。そんなお金は到底持っておらず、カミさんが必死に奔走して探してくれたbail bonds(身柄を留置された人の保釈金を立て替えてくれる組織。成功報酬は約10分の1を支払うことになる)を使って出ることができた。    保釈されたのは、実に逮捕されてから半年が過ぎた頃だった。その後、紆余曲折いろいろとあったが最後の裁判で出されたのは、1年の務所暮らしを強いる実刑判決であった。自分としては実刑を覚悟していたので、残していくことになる女房子供の食べていくための手立てだけは付けておいたのだが。家を一緒に出るときには無理に笑顔を作っていた妻が、刑が確定し手錠をかけられてそのまま護送される自分を、泣きながら見送る姿が不憫で、また申し訳ない気持ちでいっぱいであった。    いよいよ、ここから、いわゆる凶悪犯罪者と暮らす最悪の日々が始まるのだ・・・。   (後編へつづく)