連載・コラム ロサンゼルスで暮らす人々

編集: Weekly LALALA - 2019年08月13日

快挙で一区切り
「今後は還元を」

 

KC BEAUTY ACADEMY / KC SALON PRO アートディレクター

徳永 優子 / Yuko T. Koach


 

TV界最高権威であるエミー賞。第71回を迎えた今年、『アウトスタンディング・ヘアースタイリング』部門で日本人として史上初の4度目のノミネートを果たしたのが徳永優子さんだ。

 

2010年以来、10年ぶりのノミネートを「今回はいけるかなという予感はあった」と冷静に語る。

 

16歳から着物を学んだ徳永さんは美容家、和装トータルスタイリストとして雑誌やTV、映画で活躍後に渡米。渡辺謙主演『SAYURI』の着物コンサルタント、『ラストサムライ』の着物指導パフォーマンス、『ドリームガールズ』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』、TV番組でのヘアーを担当するなど、業界では名の知られた存在だ。

 

この10年で、ドラマからより緊張感のあるライブショーに方向性を変え、今ではライブショーこそ実力を存分に発揮できる世界だと自負する。

感性、そして立体づくり。技術以外に多くの引き出しが必要となるが「すべてが自分の得意とするところ」と胸を張る。

 

日本人として史上初の4度目のエミー賞ノミネートを達成した徳永優子さん。ハリウッドで成功を収め、DTLAにはサロン(kcsalonpro.com)と後継育成のためにアカデミー(kcbeautyacademy.jp)をオープン。「やりたいことはすべて形にしてきた」 ©Yoshio Matsuda

 

 

今回のノミネート番組『ワールド・オブ・ダンス エピソード3』も、世界中から集まった若きダンサーが競い合うライブショー。出場者のコンセプトに合わせたデザインと激しい踊りでも崩れないスタイリング、生放送ならではのハイスピードでの作業が求められる。

 

徳永さんは自ら編み出した、流行りのブレードを生かしたデザインを進化させ、さまざまな角度から複雑に髪を編み込み糸で固定する『エフェクトヘアー』を駆使。裁縫や着物の力が活きた熟練の技術が快挙につながった。

 

4年前、車が大破する事故に遭った。回転しながら宙を飛ぶ車内で、何一つ後悔していない自分に気づいた。

「家族に対して『先に逝ってごめんね』と思ったけれど、ああすればよかった、こうすればよかった、という思いはまったくなかった」と明かす。

「明日が必ず来ると思って生きるな」。そう思いながら日々を過ごす。

 

5年、10年先に「なぜあのとき気づかなかったんだろう」と思うことはないかと常に考え、これでもかと追求して突き詰める。そんな生き方がここ米国で花開いたのは「多くの方に支えられ、愛をもらったから」と、大きな感謝の気持ちを抱く。

 

結婚、出産、後継育成の学校創設、サロンオープン、そしてハリウッドでの仕事。自分の信じる道すべてを諦めず形にしてきた徳永さんは言う。

「今回のノミネートで一区切りできて、振り返ってみればやはり自分はアーティストで、勝手気ままにここまでやってきた。それを許して愛をくれた人が周りにたくさんいたからこそ大成できた。これからは若い人たちに自分がもらった愛を注ぎ、育ててもらった日米の業界に還元したい」。

 

ノミネート番組『ワールド・オブ・ダンス エピソード3』はダンサーが競い合うライブショー。生放送ならではの緊張感の中、スピードと技術、対応力が求められる。徳永さん(右)は自ら編み出した『エフェクトヘアー』という手法を駆使し、10年ぶりのノミネートを果たした

「好きでパッションある仕事に就けるのは価値の財産。米国に来て愛のエネルギーを教えてもらったという感謝がある。残りの人生はその蓄電した愛のパワーを放発しながら恩返しができるように歩みたい」

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    2018年10月11日 ロサンゼルスで暮らす人々

     世界を渡り歩いて活躍し、料理オリンピック米国代表チームの一員として金メダル獲得、『シェフ・オブ・ザ・イヤー』受賞など輝かしい経歴を持つフランス料理のシェフ、佐藤了さんだが、もともとは料理はあまり好きではなかったというから驚きだ。無線技師になりたかったはずが「なんでシェフになったのか」と笑う。日本橋で洋食屋を営む叔父のもとで料理の勉強をしていた若かりし頃、出前もやっていたため「寒いし、ますます嫌いに」なったという。その後、ホテルで働き始めてまもなく、東京五輪が開催された。佐藤さんを含む全国の各ホテルから選ばれた全350人のシェフが、ボランティアとして選手村で1日1万食を作った。この体験を機に「本場の料理を勉強したくなった」佐藤さんは、レストラン協会の欧州派遣制度に受かりスイスへ。スイスでの修行を終えると今度はフランス、ロンドンを経て渡米。アメリカではNYの名門ホテル『プラザ』で働いた後にシカゴへ移った。  人生の転機は、3カ月の休みを取って日本へ一時帰国した際に訪れた。芳江夫人とのお見合いである。3週間後に式を挙げ、再び米国へ。海外生活に乗り気でなかった芳江夫人も「5年以内に日本へ完全帰国」という条件で渡米。しかし、子供が生まれたことをきっかけにLAへ引っ越すと、カリフォルニアの気候をことのほか気に入った芳江夫人が一転して米国残留を希望し、一家で米国に腰を据えることに。1980年には念願の自分の店をアーケディアにオープン。だれがやっても2年でクローズしてしまうといういわくつきの場所だったが、始めてみれば毎日来店する常連や、遠方からはるばる訪れる固定客も多い超人気店となった。  2004年に惜しまれながら店をたたんで以来、力を入れるのがボランティア活動だ。ウェストコビナ市の東サンゲーブリエルバレー日系コミュニティセンターにて、毎週60人に料理の腕を振るう。また、出身地の栃木県大田原市で講演を行ったことから交換学生の世話をするようになり、姉妹都市にまで関係が深まったように、地域の発展にも貢献する。栃木県人会ではピクニックなどのお弁当作りを一手に引き受ける。「人にとても恵まれてきたと思う。日本から投資してくれる人もいたし、それは3倍にして返した。これまでラッキーな人生を送ってきたから、今そのお返しを周囲にしているんです。だからやりがいがある」。これからも「ボランティア活動はできるだけ長くやって、技術を教えていきたい。だれでもアメリカでは実力があれば成功できることを伝えたい」と話す。そんな佐藤さんの夢は、もう一度五輪のボランティアをすること。「人生で2回、オリンピックで働けたらうれしいなって思います」。引退してもなお夢を見続ける。それが若さの秘訣なのかもしれない。

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    2018年10月04日 ロサンゼルスで暮らす人々

     「カリフォルニアは気候も食べ物も合ってますね。もう自分の居場所になってるんでしょうね」と、笑顔で語る柴田勝頼さん。職業はプロレスラー。かつて同業だった父の影響もあり、高校卒業後に新日本プロレス入りした。「プロレスって自分の人生だと思ってます。米国のプロレスはキャラクターやストーリーが重視される。でも日本のプロレスではストーリーは自分の人生。生き様を投影できる。それをすごく体現していたのが自分だったと思う」。そう過去形で話すのは、リングから約1年半遠ざかっているからだ。  昨年4月の試合後、急性硬膜下血腫を発症した。医師には助かる確率は18%と言われながらも「命拾いした」が、以降は治療とリハビリの日々。しかし「いつ試合ができなくなるかわからないから毎回全力を尽くす。けがをしたからあの試合をしなきゃ良かったとは思ってない」と、後悔はない。  今年3月、所属する新日本プロレスがLAに道場を設立した。環境を変えたくて、「行きたい」と直訴。コーチとして4人の練習生を指導する現在、すっかりLAの空気に馴染んでいる。「来る前はやっとジムに行けるようになった状態で、人に見られたくなくてこっそり1人で練習したり。ここでは練習にすごく集中できる。天気がいいし、この広い青空が気持ちを解放してくれる。カリフォルニアの空が自分を救ってくれました」。渡米直後は悪かった体調も戻り始めている。実際に動いて道場生を指導する中で「身体のハリが戻ってきた。つい最近ですね。感触としては60%とか」と明かす。医師が治らないと言った後遺症の同名半盲も回復の兆しがある。人気選手だけに日本では悩まされた周囲の雑音も人目も、ここでは気にならない。もともと細かかった性格は「いい意味で雑に」なった。「道場が好きで丸一日いますね。落ち着きます。こっちに来たのは大正解ですね」。そう言うほど、カリフォルニアの青い空は居心地がいい。  追い込んだ練習はまだできないが〝リハビリ〟は〝トレーニング〟になった。「徐々にリングに近づいている感触はあります。何もしないで終わるよりはそこに向けての全力を尽くしたい。日本では『無理だよ、やめなよ』とかばかりだけど、ここは自由の国だからトライできる。復帰を考えると焦りしか出てこないし、今はそれを外しちゃって、やれることをやってます。一日一日が『あ、これできた』『あ、今度はこれ』って」と話す表情には充実感がある。たまに、大好きな『あしたのジョー』と自分が重なるという。「まだ灰にはなってないですけど」と笑う。時期が決められないなら、決めない。気長にやろうと決めた。「まあ、自分は『プロレスラーなう』ですね、今も。こっちでがんばってる。リタイヤか続けるか、白か黒か色ではっきりしろと言われるなら、自分はカリフォルニアのスカイブルーですね(笑)。以上!」

  • 先人への感謝、 若人に継承

協同システム 羅府中央学園主任

蔡 正子|Masako Chai


 

    先人への感謝、 若人に継承 協同システム 羅府中央学園主任 蔡 正子|Masako Chai  

    2018年09月27日 ロサンゼルスで暮らす人々

     1948年に創設された全米最大規模の日本語学校、日本語学園協同システムのロサンゼルス羅府中央学園で教える蔡正子さんは、結婚相手の米国留学を機に渡米した。まずは語学学校に通い、間もなく日系商社に就職。5年間勤めた後に子どもができたため退職した。渡米前は生活できるのだろうかと不安だったが、いざLAに来てみると住みやすくてすぐに馴染めたという。「当時から日系人の方々には感謝の気持ちがありましたね。先人が築いた日系社会に対する信用などを継承していきたいと思いました」と振り返る。中央学園との関わりは5歳になった子どもを入学させたことが始まり。当初は父兄として学校運営に携わると同時に、代理教師として中央学園で働いていた。その後、中高等部で教師となり主任を務め、パサデナ学園の主任を経て再び中央学園主任となり、現在まで現役で教鞭をとる。  日本人、日系人どちらの子どもも通う中央学園では、レベルの異なる子どもたちを一緒に教えなければならないため教える側の苦労は大きい。親が新一世の場合や渡米間もない子どもたちは読み書きも会話もできるが、「日本語がわからない子に教えるのは一番大変」だという。親の日本語能力によって子どもの日本語能力もかなり変わってくるため、学校側は個々のケースに応じて対策を取る。また、全員が動機があって入学するわけではなく、「日本語に興味のない子が騒ぐのが大変です(笑)」。モチベーションやレベルの違う生徒をどう指導するか教員同士で話し合い、使用する教材を代えるなどの対応をしながら、外国語としての日本語を文化や料理、歌から覚えさせるといった工夫をし、日本の言葉と文化を伝える授業を行う。苦労も多いが、蔡さんは「子どもたちの成長を見ることや、卒業生の子が学校に入ってくるとまたうれしいし、日系二世、三世が多いのもうれしいことです」と充足感を見せる。  蔡さんが日本語教育以外にも重視するのが、感謝の気持ちを教えること。中央学園の校舎は父兄たちの協力により建てられた。「当時の日本人のがんばりがすごかったんだと思う」と話し、生徒たちには常に「この学校は日系人の先輩たちが建てたのだからきれいにしなさい」と言う。「若い人たちにそういったことを後々のために伝えて、今あるものは自分たちのためだけではないということを考えてほしい」。日本語教師として、米国で暮らす日本人としての思いだ。「日系社会もいろいろ分かれている。一人でも多くの日系人に日本語学校に参加してもらって、日本語はもちろん、日系人が残していった財産、歴史を共有してほしい」。これからの時代を担う若人たちへの願いを胸に抱きながら、今日も教壇に立つ。

  • 作品通して伝える 次世代への想い

映画監督

光武 蔵人|Kurando Mitsutake


 

    作品通して伝える 次世代への想い 映画監督 光武 蔵人|Kurando Mitsutake  

    2018年09月20日 ロサンゼルスで暮らす人々

     映画監督、光武蔵人さんの売りは「米国にいることを武器に低予算日本映画をLAで撮影する」こと。キャストからクルーまで全員を日本からアメリカに呼びよせれば人件費は膨らむ。しかし土着のクルーが撮影を行えば費用を抑えることができる。これまで監督した長編映画3作はいずれも日本では全国順次公開されているが、目標とするハリウッド映画での監督は「まだ遠い」という。外国籍の監督がオファーを得るには、母国での全国同時公開規模の成功が必要。「今はちょうどキャリアの転換期。フェーズ1ではそこそこ成績を残せた。次は日本で全国同時公開規模の映画をやりたい。それをフェーズ2とするなら、フェーズ3はいよいよハリウッドに呼ばれてやるというのが僕の野望」と語る。現在はエージェントから打ち合わせに呼ばれることはあるものの、なかなか次のステップに進めないのが悩みだ。  映画に興味を持ったのは、子ども時代にテレビで毎週放送されていた洋画劇場。もともと〝お話を語る〟ということに魅力を感じていたといい、物心ついたある日、スピルバーグ監督の『激突』という映画をテレビで観て感化され「映画に取り憑かれてしまった」。80年代、90年代の当時はレンタルビデオバブルの時代。圧倒的に本数が多かったのは米国映画で、漠然と「米国で映画の勉強を」という思いを抱いていた。渡米は高校生のとき。高校1年を日本、2~3年を米国で学べるという学校の新聞広告を父が見つけたことから実現した。高校卒業後はサンフランシスコの芸術大学に進学、映画学科で2年間勉強し、大学3年からはバレンシアの大学へ。大学院まで修了すると日本のコーディネーション会社を経て独立した。実は、2010年には一度、活動拠点を移すため日本へ帰国している。しかし東日本大震災をきっかけに再びLAへ戻ってきた。  これまでの作品では「人は負けるかもしれない戦いにあえて挑むべきときがある」というメッセージがメインテーマだ。「歯向かうとか抗うのは大事なこと。右向けと言われて右向くだけの人生よりも豊かになる」。70年代、80年代のアクション映画の基本はモラル・テールだったが、最近は映画産業の商業主義化によって豊かさが減少し、かつてのような個人のビジョンやメッセージ性のある作品が少なくなっていると光武さんは考える。「若い人に、僕の作品の中でそういうことを感じ取ってもらえればいいかなあと。昔の映画は、そういうことを僕らに教えてくれたと思うんですよね。大事なことは映画で教わったというか」。  次の世代に、自らの作品を通して大切なことを伝えたい。そんな思いを胸に、大好きな映画と向き合っている。

  • 夢与えるため夢実現へ

映画監督

大澤 広暉|Hiroki Ohsawa


 

    夢与えるため夢実現へ 映画監督 大澤 広暉|Hiroki Ohsawa  

    2018年09月13日 ロサンゼルスで暮らす人々

      人に夢を与えたい。大澤広暉さんが映画監督を志す理由だ。LAのニューヨーク・フィルム・アカデミーで映画製作を学び、昨年修士課程を修了した。しかし一度は玩具の会社で営業職に就いている。  子どものころからおもちゃが好きで、日本の玩具を原作にハリウッドで映画としてリメイクされた作品でもある『トランスフォーマー』にあこがれた。そんなバックグラウンドから、就職活動は玩具業界と映像業界に絞った。 日本の大学では映像製作は副専攻だったが、自主制作で撮った作品が賞を獲った。   それでも映像関連ではなく玩具会社に就職したのは「小さいころから〝ストーリーを伝える〟ことが好きだった。 自分が一番使える映像というツールでストーリーを伝えるか、おもちゃというツールを使ってストーリーを伝えるか。どちらも夢を与えることには変わりない」と考えたからだ。  2年間働いた玩具会社を退社し、米国へやってきたのは4年前。会社の商品のプロモーション映像を自社制作したいとも考えていたが、映像専門の学部出身でもなければプロとしての経験もないため実現が難しく、「学生時代に賞を獲ったといっても趣味のレベルは超えられない」と痛感し、映像制作を一から学び直そうと思ったのがきっかけだった。それまで海外志向はまったくなかった。 しかし「世界の中で最高の映画の教育が受けられるところはやはりハリウッド。どうせなら海外に行くのもありかなという思いがそこで芽生えました」。  LAでの進学先は「入学翌日からユニバーサルスタジオ内でカメラの講習を受けるような非常に実践的」かつ休み返上のカリキュラムが売り。さらに外国人学生が多く、結果としてワールドワイドなコネクションを作ることができたという。 「能力を認めてくれると元クラスメイトがスタッフとして呼んでくれたりして、いろいろな経験ができるのは将来にもつながる。ワールドワイドな視点も強み」。 学生時代は監督した作品がノミネーションを含めて複数受賞したが、卒業したからといってすぐに映画監督になれるわけではない。   現在はウェブシリーズの番組の監督や、監督兼プロデューサーとして日本語教材の映像コンテツに携わるなど、異なる活動を通じて基盤を築いている最中。 いずれは自分の作品で日本の文化を発信していきたいと考えている。   米国で足下を固め、そのバックグラウンドを背負った状態で日本へ行き、最終的には日米をまたいで仕事をするのが目標だ。 夢を与えるために、まずは自分の夢実現を目指している。