連載・コラム ロサンゼルスで暮らす人々

編集: Weekly LALALA - 2019年08月07日

世界の平和を願い伝える武士道精神

Peace Messenger
藤原 武蔵 / Fujiwarano Musashi

義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義。いわゆる”武士道”が説く七つの徳目だ。自己規律や自立した精神を育てる教えで、侍の生き方を指す。

藤原武蔵さんは、この武士道精神を世界で広めることによって平和をもたらしたいと、2年前から地道な活動を続けている。

 

数年前、友人が事故で急死するという辛い経験をした。

人はいつ死ぬかわからないと実感し「いま自分が死んでも、この世に何も残すことができない。だったら何かしたい」という思いが生まれた。

さらに、世界でひん発するテロについてのニュースを目にすることが増え、「人のために何かできないだろうか」と考えた。

そんなとき、日本はなぜ平和なのか、疑問に思った。特に、200年以上続いた江戸時代のような平和はほかのどの国の歴史にもない。

「いろいろと勉強をしていくうちに、幕府の政策だけでなく、当時の日本人は武士道精神を元に生活していたからこそ、平和を築くことができたのだと気づきました」。

 

侍の戦う部分ではなく、あくまでもメンタルの核となるサムライ・スピリットを世界中の人に伝えたい。そんな気持ちで、2017年7月、ここロサンゼルスでパネリストとして武士道精神について説いたフォーラム参加から、〝World Peace Messenger〟としての活動が始まった。

 

侍の格好で「World Peace」と書かれたのぼりを掲げ、世界の各都市を歩く。

興味を持った人が話しかけてくると、武士道精神について説明しウェブサイトやインスタグラムを案内する。

 

地道だが、ウガンダでは小学校を訪れて子どもたちと交流したり、コルカタのマザー・テレサが作った施設で2週間ボランティアをするなど、人と人とのつながりによってネットワークは着実に広がっている。

これまで2年間で五大陸24カ国を周り、7月に2年ぶりにLAへ戻ってきた。

 

世界を周ることであらためて感じたことがある。「先進国から発展途上国まで行ったが、現地の人たちが見ず知らずの自分に優しくしてくれ、人間として当たり前のことが本当にありがたかった。国が発展し生活が豊かになるにつれて、本来人が持っている思いやりの精神などは薄れてしまっている」。

 

日本ですら忘れ去られてしまった武士道精神を海外で広め、より効率的かつ幅広く知ってもらうためにも、いずれは武士道についての映画を製作したいという。

 

最終的には、世界から日本へ逆輸入の形で活動の場を移すことも視野に入れている。

「根本の精神は世界共通のはず。それぞれ異なる宗教やバックグラウンドなど、互いに受け入れて尊敬し合えれば世の中は良くなる」と信じる。

 

「LAは原点。また戻ってくる」ということばを残し、藤原さんは再び世界へと旅立った。

 

Peace Messengerとして武士道精神を世界に伝える藤原武蔵さん。ロンドンでの2年間の留学経験を持ち、このときの海外生活は「日本という国を客観的に見られるようになった」と、グローバル侍の原点となっている。2017年に開設した公式Instagram(@samurai__musashi ※編集部注:アンダーバーは2本)は2年間でフォロワー2万2千まで増加


パフォーマーではないため、チップをくれようとする人も多いがすべて丁重に断っている。「武士道精神はお金のためではなく人のため」と、サムライ・スピリットを日々大切にする

活動を始めたLAでは「最初は度胸が必要だったが、初日からサンタモニカを歩いていて出会った人たちががんばれと声をかけてくれたり、車の中から親指を立てて合図してくれたり、勇気をもらって背中を押された」という

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くじら学園園長/ プリスクール教師

ブライト 直子|Naoko Bright


 

    学校、生徒、保護者が 二人三脚で取り組む教育 くじら学園園長/ プリスクール教師 ブライト 直子|Naoko Bright  

    2018年08月30日 ロサンゼルスで暮らす人々

     サンディエゴで生まれ、アメリカ人と日本人の両親の間で育つ子どもたちに日本語や日本文化を伝えたい。そんな思いを持つ保護者によって1987年に作られた幼児保育グループ『くじら学園』。保護者が持ち回りで教え、運営していた学園に、1998年に娘さんが入園、それをきっかけに『くじら学園』に関わるようになったブライト直子さん。2001年にはブライトさんは園長となり、学園は非営利団体として登録された。  「園長になるからには自分も幼児教育について学ばなければと思い、Child Developmentの資格を取得しました」。それから資格を生かし、平日には現地公立学校のプリスクール教師としても従事。そしてこのプログラムがスペシャルニーズの児童を受け入れることになり、ブライトさんはさらにAutism Educational Certificateを取得した。  「『くじら学園』に関わる前には自分が教育者になるとは思ってもみなかった」というブライトさんだが、今は自分がやればやるほど結果が出る仕事だと実感している。  その後『くじら学園』の幼稚部を終える園児や保護者から「日本語の学習をもっと続けたい」という要望が増え、2011年に継承語日本語教育機関となる小学部を設立。「当学園には保護者からの日本語を継承していく指導がふさわしいと考えました」。ブライトさんをはじめ教員はカリフォルニア州立大学ロングビーチ校日本語科主催の継承日本語教師研修に参加し、その指導法に基づいて授業を行っている。  「保護者主体で学園を運営し、家庭の日本語をどうサポートするかを伝えるのが学校。それは設立以来変わらない方針です。教師は保護者が子どもとどう関われば日本語が増えるのかというヒントを紹介しています。まずは日本語を話したい子どもの気持ちが大切。子ども自身が一生懸命伝えようとして自分で考えて伸びるのです」。そう話すブライトさんも日頃から子どもたちの声を聞き、耳を傾けている。  「園児が学校を楽しんで、入学してから1年経って、できなかったことができるようになる成長を見るのが嬉しい。ここにくる園児や保護者の希望は、『日本の祖父母と話がしたい』から『高校のSAT Japaneseで高得点が取れる学力を身につけたい』まで様々です。当園では少人数だからこそ全ての園児や保護者の顔と要望がわかり、一人ずつに合わせた目標に向かってお手伝いができるのです」  これからは自身の日米の経験を生かし、幼児教育のワークショップを開いていきたいと話すブライトさん。「保護者は教育といえば勉強がまず気になりがちですが、友達と一緒に楽しんで遊ぶ、人を思いやる心を持つなど、社会性があり、情緒が安定している子は勉強もできるようになります。そういったエピソードを伝えていきたいですね」。

  • 武器は“楽しむ”

プロスノーボーダー

片山 來夢 |Raibu Katayama


 

    武器は“楽しむ” プロスノーボーダー 片山 來夢 |Raibu Katayama  

    2018年08月22日 ロサンゼルスで暮らす人々

      ただひたすら好きなことをやり続けている。W杯で優勝した。初出場となった平昌五輪では7位入賞した。でも、「何のためにしてるとかじゃなくて、ホントにもうただ楽しいって感じですね。ただスノーボードがしたいだけ」。それがスノーボード選手の片山來夢さんだ。今年5月、カリフォルニア州マンモスマウンテンで実施されたUSチームのキャンプに参加した。各国の代表選手しか参加できないこのキャンプでは唯一の日本人だったが「楽しかったです。けっこうワイワイして。なんか、楽しかったです」と、まったく臆さない。  2週間のキャンプが終了すると、英語の勉強のためにLAへやってきた。「語学学校は、正直思ったより大変。毎日ギリギリ終わるぐらいの宿題が出てます。でも楽しいからいいです。しかも自分のためになってる」。好きなこと、そのために役立つことに対しては努力を惜しまない。スノーボーダーの試合以外の主な活動は撮影だが、「動画もアメリカ発だったり海外発のほうが影響力が大きいし、自分もそれを見てあこがれた。生き残っていくためにはこの先英語は絶対必要になる」。雪のないLAでは、学校が終わるとすぐにスケートパークやサーフィンへ。「スケート、サーフィンも横乗りなんで、スノーボードを意識して板に乗るというか。でも今は、単純にスケートとかサーフィンが楽しいからやってる感じです。趣味だけどスノーボードにもつながる」。いろいろなことに興味があるものの、ベースはスノーボード。芯はぶれない。  スノーボードを始めたきっかけは父だった。「お父さんが趣味でやっていて、おれは最初は全然楽しくなくて。お父さんがお母さんを説得する口実のために2歳ぐらいから連れていかれてた(笑)」。しかも、現在主戦場とするハーフパイプは「大嫌いだった」。ジャンプやパイプのないスキー場で育ち、ハーフパイプがどういうものか知らなかった。遊びで初めてトライしたとき大クラッシュし「もうやんない」と思った。1年ほど経ってから再チャレンジ。これが意外と楽しかった。そして2週間後に初めて出場し6位に入ったハーフパイプの大会で、優勝した平岡卓(ソチ五輪銅)ら同世代の選手を目の当たりにし、「こんなやつらいるんだ」とモチベーションが高まり、すっかりハマった。  ソチ五輪後に18歳で初めて日本代表チーム入りした。たとえ代表であろうと、気持ち的には変わらない。「有意義ではあります。選手と情報交換したりアドバイスし合ったり。それがスノーボードのいいところだと思う。大会でも敵対心はなくて、いい滑りを決めたら称えるしリスペクトする」。五輪やX GAMESで勝つことも目標だが、「その上で自分の撮影とかのシーンで魅せたい。めちゃくちゃ深く考えてるわけじゃないんですけど、やっぱりスノーボードしてるのが楽しいんで。そんな重く考えたりしない」。ただ楽しいことをやる。それが〝來夢流〟の武器だ。

  • 限界の先を求めて

プロボクシングWBC アジアヘビー級王者

樋高 リオ |Rio Hidaka


 

    限界の先を求めて プロボクシングWBC アジアヘビー級王者 樋高 リオ |Rio Hidaka  

    2018年08月16日 ロサンゼルスで暮らす人々

     〝強さ〟とは何か。それを問い続けているのは、プロボクサーの樋高リオさんだ。「強いって何なのかという問いがずっとあって。自分はまだわかってない。それを知りたいのかもしれない。弱い自分との戦いをしていて、本当に強いっていうのは何なのか、答えを探していますね」と、戦い続ける理由を語る。体格で劣る日本人には厳しい戦いと言われるボクシングのヘビー級。リオさんはその厳しい階級で、2016年からロサンゼルスを拠点とし、日本人初のヘビー級世界王者を目指している。  ボクシングに本格的に取り組み始めたのは25歳と遅い。当時の日本はKー1グランプリやPRIDEなど格闘技ブームの真っただ中。リオさんはひざの手術を終えたばかりだったこともあり、蹴りのないボクシングを始めた。しかし「ボクシングは本当に全然できなくて」。悔しさがきっかけで、いつのまにかのめり込んでいたという。2006年にはボクシングのためにオーストラリアへ。ニュージーランドでプロデビューし、5戦目からは日本で活動を開始した。その後、環境やモチベーションがともなわず引退も考えたが、「まだ自分はここまでじゃない」という思いは強かった。2014年から拠点をアジアへ移し、翌年、WBCアジアヘビー級タイトルを獲得。「アジアも獲ったしアメリカに行こう」と次のステップを踏み出した。  ロサンゼルスに実際来てから、実力社会を身をもって感じている。「ここでは本当に自分次第ですね」。渡米後2カ月でけがの不運に見舞われ、負傷続きでまだ試合に出場することはできていない。しかし4月から本格的に練習復帰を果たし、再スタートの準備を整えている。ヘビー級での戦いは「身体の強さというか、骨なのか、骨格なのか、筋肉量の違いなのか、大変さを感じる」といい、フィジカル強化のためにウェイトトレーニングのジムにも通う。しかし「トレーニング理論もアメリカのほうが進んでいるし、日本よりヘビー級ボクサーが多いのでトレーナーもヘビー級の選手について知識がある。学ぶことは多い」。スパーリングパートナーには困らないという大きなメリットもある。  リングの上で頼れるのは自分だけ。その分、自分自身が得られるものも多い。「ボクシングは本当に一人の勝負だから、自分に返ってくるものは大きい。それが欲しくてやっているということに尽きるかもしれないですね。勝ったときの喜びや壁を越えたときの喜びであったりとか、限界に挑戦というか。たどり着いたら新しい景色があって、そこからさらにまた上があって次の戦いに向かっていく。自分は目標と違うことに囚われてきたことがすごく多く、直接目標に向かうことができていなかった。自分の弱さに負け続けてきた。それを克服するには、日々戦いなんですよね、自分の中で。自分の限界もまだ見ていないから」。答え探しの戦いはこれから始まる。

  • 「日系人社会一つに」

南加宮城県人会会長/ロサンゼルス七夕委員会ボードメンバー会長

米澤 義人 |Yoshihito Yonezawa


 

    「日系人社会一つに」 南加宮城県人会会長/ロサンゼルス七夕委員会ボードメンバー会長 米澤 義人 |Yoshihito Yonezawa  

    2018年08月09日 ロサンゼルスで暮らす人々

     1956年、終戦後に米国へ移住した米澤義人さん。当初は英語がまったく話せず、ハワイの入国管理局では近くにいた日本人の方に助けられたという。給油のための乗り継ぎ2回を経て、計36時間をかけて日本からロサンゼルスへたどり着いた。着いてまもなく参加した同郷の人々が集まる南カリフォルニア宮城県人会は「400人ぐらいいて驚きました(笑)」と振り返る。1992年以降は会長を務めるこの県人会では、日本人の助け合いの精神をあらためて感じたという。10年前には、日系人が集うリトル・トーキョーの活性化につながればと、七夕委員会を発足。以来、郷里名物の七夕祭りロサンゼルス版を、毎年8月にリトルトーキョーで行われる日系人の祭典『Nisei Week』の一環として開催している。  米澤さんは「新旧日系人の交流をもっと深めたい。ここには日系社会の小さな団体がたくさんあるから絆を深めたいと思って始めました。日系社会を存続していくためでもある」と開催のきっかけを話す。言葉やバックグラウンドの違いによって、それぞれの小さなコミュニティー間ではまだ言葉や意思の疎通が難しい部分が存在すると言われるロサンゼルスの日系人社会。その発展と地域の活性化を願って始まったロサンゼルス七夕祭りは今年で10回目を迎える。準備は4月ごろから開始し、ワークショップを開催し、学校を訪問して子どもたちにお飾りの作り方を教える。そうしてできあがった地域の個人や団体などによる150個以上の七夕飾りが、日系人博物館前の広場を鮮やかに彩る。  七夕祭りの飾りはすべて手作業で作られる。老若男女だれでも作ることができ、話をしながらコミュニケーションを取る手段にもなる。そのため「この作業が、核家族化によってバラバラになりがちな今日、家族が再び一つになるきっかけにもなる」。お飾りを作ったことがきっかけで日本を初めて訪れ、ねぶたに始まり竿燈、七夕と東北の三大夏祭りを一通り体験してきたという日系人の方もいるという。ともにテーブルを囲み、作業に精を出すことで「親子の会話が増えた」「孫とのコミュニケーションが取れるようになった」という声も多い。米澤さんの夫人、純子さんは熊本出身。宮城についても七夕祭りについても知識がなかったため、最初は大変だったというが、経験を通して徐々に学んでいき、米澤さんをしっかりと支え続けてきた。米澤さんは「みんなで一緒に作って、ここに集まって団結して、日系人社会をもっともっと良くしていきたい」と話す。手を取り合って生きていきたい。そんな願いが込められたロサンゼルス七夕祭りが、今年も始まる。

  • 「和食文化の入口作りたい」

土鍋専門店経営者

モア 武井 奈緒子 |Naoko Takei Moore


 

    「和食文化の入口作りたい」 土鍋専門店経営者 モア 武井 奈緒子 |Naoko Takei Moore  

    2018年08月02日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ウエストハリウッドの『TOIRO』。高い天井から自然光が差し込み、明るくゆとりのある店内スペースに一歩足を踏み入れると、そこにずらりと並ぶのは日本人には馴染みの深い土鍋だ。約100種類の土鍋と日本のキッチン用品などを扱う。経営者は武井モア奈緒子さん。「土鍋を通じて、日本の食文化に興味もってもらうためのきっかけづくりをしている」と話す。『TOIRO』で扱う土鍋は三重県伊賀市の窯元『長谷園』のもの。中には何千個と試作品を作り5年以上かけて開発した商品もあり、特に若者などには手が届きにくい値段だ。「だから和食に興味を持ってもらうためにいろんな入口がないとダメだなと。 若い人はふらっとやってきて一個数ドル程度の食品を買ったりする。どんな人でも手の届くものがあるお店でありたいし、何がきっかけになって日本の食文化に興味を持ってくれるかわからないので、食品や小物も取りそろえて、違う入口を作ってあげたい」。  武井さんにとって土鍋とは「空気みたいな存在」だという。子ども時代、冬になると家族で鍋を囲む日常があった。2001年に留学で渡米したころ和食が作りたくなり、最初に欲しいと思ったのが土鍋だった。運命の出会いは10数年前。一時帰国中の日本で長谷園の土鍋で炊いた白飯を食べ、「こんなおいしいご飯があるんだ」と衝撃を受けた。「土鍋は日本の食文化を象徴する道具の一つ。これを伝えたいと情熱がわいてしまった」。窯元に連絡をとり、米国で輸入したいが輸入の経験はないことを伝えると、「私たちも輸出とかわからないので、一緒に勉強しながらやりましょう」という温かい返事をもらった。  まずはオンラインストアのみで販売を開始したが、割れ物である土鍋の輸送には苦労したという。「EMSで送ってもらったら一個送るのに170ドルとか。次は船便で送ってもらったら全部割れてしまったり」。試行錯誤を繰り返し、徐々に注文や問い合わせが増えた。武井さんのこだわりは「日本の職人技が光る食にまつわるものを紹介する」こと。それらすべてを手にとって見てもらうためには実店舗が必須と考え、昨年10月にオープンにこぎつけた。「一つ一つをゼロから作るのは大変だけど、暖かくサポートしてくれる人が多い。そういう人たちを大切にしたい」。  現在ではオンラインと合わせて毎月500個ほどの土鍋が売れる。オンラインの注文は米国だけにとどまらず、ヨーロッパなどからも多い。店舗を訪れるお客さんはほとんどが米国人。自分で卵焼きを作ったり、黒ごまと白ごまの種の違いについて聞いてくるなど、その意識の高さや知識に日々驚かされている。しかし、まだまだ「米国で和食は人気があるけど、みんなお寿司や天ぷらにいってしまう。だから自宅でみんなが作りたいと思うような、本当の日本の家庭的な食文化を伝えたい」。海外在住の日本人としての使命感で始めた土鍋ビジネスは、今年で10周年を迎える。