連載・コラム ロサンゼルスで暮らす人々

編集: Weekly LALALA - 2019年06月13日

「社会にインパクトを」

作曲家

岡田 果林 / Karin Okada


 

  日本で生まれ、イギリスで思春期を過ごし、そしてアメリカで学んだ岡田果林さん。インディペンデント映画を中心に、コマーシャルやアニメーションの作曲家として活動している。「いい作品を作ること、いろいろ読んだり聴いたり、人間の感情を表現することは自分が育っていくことにつながる。一生やっていたい」と仕事への情熱を燃やす。


 音楽との出会いは5歳のとき。ピアノの先生だった祖母の影響でピアノを弾き始めた。音楽の道に進みたいと思ったのは小学校のころ。中学ではバリトンサックスを始め、音楽とともに過ごす日常を送っていた。転機はこのあと訪れる。イギリスへ留学することになり、英語はまったくできなかったにもかかわらず、13歳で単身、海外へ。現地で入った寄宿学校では、言葉ができないながらも寮では毎晩、ルームメイトたちにせがまれ創作のおはなしを語り聞かせていた。「ことばができないのにどうやって、と今でも思いますが、感情を体や音で表現することは音楽を通して学んでいたから、それが役に立ったのだと思う」。大好きな音楽によって培われた表現力は、寮生活でも磨かれていった。


 大学からアメリカに移り住み、映画作曲を勉強した。大学院はニューヨークでジャズボーカルパフォーマンスを学び、ジャズピアニスト&ボーカリストとして10年間活動。映画作曲のためにLAへ来てからは、数々の映画祭出品作や受賞作品に関わっている。5つの映画賞を受賞した『リベンジ・オブ・ハヤブサ』は作曲家クリストファー・ヤングのプロジェクトに参加するきっかけにもなり、着実にキャリアを積んできた。


 作品を選択する際は、ストーリーが世界にとって意味があるかを吟味する。「社会にインパクトを与える話が好き。大きさは気にかけたことがない」と言い、より自由なインディペンデント映画を選ぶことが多い。現在携わる2つのプロジェクトは、移民家族内で起こるドラマを描いた作品と、女性への暴力を取り上げた一本。「いずれも現在この社会で起こっているテーマで、人々の理解を深めることができる。普通の人にできることは理解することだけ。だからこそ社会に貢献する作品になる」と話す。


 3カ国の異文化を吸収してきた経験が岡田さんの強み。現在の拠点はLAだが母国へ馳せる想いは強く、今後は日本のプロジェクトにどんどん関わりたいという。トップの女性作曲家は世界的にもまだまだ少ないため、「自分がそうなりたい。200年経っても人々が銅像を見に来てくれるような作曲家になる」。カリフォルニアから母国への〝逆輸入〟が目下の目標だ。

LAをベースに作曲家として活躍中の岡田果林さん。「今ある仕事を一所懸命やることでしかできないけど、将来的には日本でもやりたい」と母国凱旋に意欲的だ 岡田さんの曲は公式サイト(https://karinokada.com/)、Facebook(https://www facebook.com/kokadamusicproductions)で視聴できる

 

作曲の仕事は「自分で作っていて曲がいいかどうかはわかる。でも他の人が泣き出したり、鳥肌が立ったりという反応を見るとうれしい」とやりがいを感じ、一生続けたいという

ニューヨークの大学院ではジャズボーカルパフォーマンスを学び、ジャズピアニスト&ジャズボーカリストとしても活動しマルチタレントを発揮

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ダンススタジオオーナー/ インストラクター

浜垣 威  / Takeshi Hamagaki


 

    「実行すること大事」 ダンススタジオオーナー/ インストラクター 浜垣 威  / Takeshi Hamagaki  

    2019年05月16日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ブロードウェイの舞台に立ち、NYC、ラスベガス、マイアミ、プエルトリコなど世界で活躍したダンサー、浜垣威さんは、80歳を超えた今も現役で教える。週に3回、大人のプロダンサーを相手に、スタジオシティのハマダンスセンターにてアドバンスクラスを開いている。「ダンスは頭も肉体も使う。自分の踊りを通してけじめ、礼儀、根本的な社会性を養うことができるし、いつまでも若くいられる。武道でも頭と体両方を鍛えないといけない。踊りも同じ。それが未だに続けられる理由」と元気の秘けつを明かす。  高校卒業後は事務の仕事をしていた浜垣さんだが、兄に「運動神経がいいからダンスをやってみたらどうか」と言われ、夜間学校に通いながらバレエを習い始めた。19歳のときに日劇に入りダンスと出会い、5年間在籍。1年後にオーディションに受かり、大きなステージに立った。「ダンサーとしては遅い」と笑う。1964年夏、NYCへ渡り“ジャズダンスの王様”と呼ばれるルイジについた。さまざまなスタイルのダンスを学び、「7年間いろいろな苦労をしながら、皿洗いからいろいろなことをやって。だんだん仕事が入ってきてビザも取れて」、活動が徐々に軌道に乗り始めた。ブロードウェイのショーやラジオシティ、テレビが出てきたころから『ナイトクラブ』というレビューショーにも出演。活気のある業界の中で「勉強しかない日々」を送っていた。「ジャズダンスは西洋の踊りだから、日本人の顔は必要とされない。その中で打ち勝つには、うまくなるしかなかった」と振り返る。  ルイジのスタイルを継承しながらも、独自のダンスを発展させていった浜垣さん。1971年にLAへ移住し、数多くのテレビ番組や映画、ナイトクラブのショーに出ながら師であるルイジの下で踊りを教えていた。1991年にはスタジオをオープン。 「50歳でスタジオを持つと決めていて、51歳で始めた。手の届く目標を持つことは大事」と説く。地に足をつけ、実生活と夢と理想をしっかり自分で育てなければ人真似になってしまう。人は育ててはくれず、人のまねでは商売にならないと考える。  「僕はとにかく踊りが好きで、踊りには正直に生きてきた。自分なりの哲学がないと人生がおろそかになる。毎日を大切にいいことをしていればいい結果は出る」。人生において、実行するということを大切にしてきた。「若者には夢を持ちなさい、実行しなさいと言いたい。見ているだけじゃなくて、とにかく足を突っ込む。勝負すること。自分に正直に、何になりたいのか決めること」。 それを体現してきた浜垣さんのことばには重みがあり、説得力がある。

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ハープ奏者

鈴木 みりあむ   /  Miriam Suzuki


 

    取り戻した人生の忘れ物 ハープ奏者 鈴木 みりあむ   /  Miriam Suzuki  

    2019年05月09日 ロサンゼルスで暮らす人々

     挫折は突然次の扉を開けることがある。ハープ奏者、鈴木みりあむさんの場合もそうだった。琵琶湖の湖畔で育ったみりあむさんのハープとの出会いは5歳のとき。叔母が始めたことをきっかけに家族で京都在住の先生に習い始め、ハープの美しい音色にすぐに夢中になった。ところが引っ越し先で先生が見つからず辞めざるを得なくなり、その後続けていたピアノでヘルシンキの音楽学校に学び、日本に帰国後、1983年に家族とロサンゼルスへ移った。  子育てが終わったころ、ある挫折を経験し心から落ち込んでしまった鈴木さん。そんなとき、クリスマスシーズンに40人ほどが大小ハープを持ち寄りモールで演奏しているのを見たことを思い出した。その瞬間「人生に忘れ物をしていた」と気づいた。すぐにハープの先生を探すと、会って間もなく意気投合し、促されてその場で弾いてみると、子どものときにやった曲を弾けてしまった。その場でハープを借りて帰り、弾くことが楽しくてたまらない生活が始まった。  しかし仕事の傍ら睡眠時間を削ってハープに没頭していたところ、数年後に腱鞘炎を発症してしまう。さまざまな治療をしたが完全に弾けない状態が1年間続いた。試行錯誤していたある日、左手薬指が原因だと気づく。「3本なら弾き続けられるかもしれない」。そう考えて新たに先生を探すと演奏フォームをすべてやり直し、徹底的に脱力を練習。1本の指が完全に使えなければ、当然レパートリーが限られ、運指の変更やアレンジの必要も出てくる。それでもあきらめずに取り組んでいると、自由に湧いてくる思いを表現できる形が自分の中から生まれてくるようになった。腱鞘炎という挫折が自らの作曲の能力に気づかせてくれ、「ほかの人にはできない自分だけのハープ」を生み出すことにつながった。  現在は日米での演奏活動を中心に、オーディエンスと思いを共有できるコンサートを目指す。指導も行っているが、みりあむさんが教えるのは大人。「自分が大人になってから始めたので、ぶつかる壁などがわかる。その人自身が培ってきたものを活かせるよう導きたい」。ハープは大人が始める楽器に適している。初めてでも音をすぐに出すことができ、何よりもその美しい音の響きは小川のせせらぎやそよ風のように心に作用し、日々のストレスを癒してくれる。「ハープを奏でることで心をリセットでき、性格が変わる人も多い。ハープは怒りながらは弾けないから」。弾くことで〝心を深く養われる〟ことに気づいたみりあむさん。そんなハープとの出会いに感謝を込めて、これからも癒やしの音色を奏で続ける。

  • 「勝利で恩返しを」

アマチュアボクサー

赤井 英五郎 / Eigoro Akai


 

    「勝利で恩返しを」 アマチュアボクサー 赤井 英五郎 / Eigoro Akai  

    2019年05月02日 ロサンゼルスで暮らす人々

     ロサンゼルスの大学を昨年卒業し、今回1年ぶりに戻ってきた赤井英五郎さん。東京五輪出場を目指すアマチュアボクサーだ。今夏行われる大会に向けた合宿のため、再びこの地を踏んだ。  小学校6年でハワイに留学。中学ではラグビー、ハイスクールではバスケットボールとアメリカンフットボールをプレーした。ボクシングを始めたのは、大学のためにLAに移ってからだ。ボクシングをやろうと思ったときに東京五輪が発表になり、「これも縁かな」と思ったという。「それまで興味はなかったけど、父が父だし。大学進学のときに今後の人生を考えたら、学業は後からでもできるけどスポーツは時間が限られていると思った」。  父は元プロボクサーの赤井英和。引退後は俳優として今もなお活躍中だ。「子どものころから父のことを言われて比べられて、それが嫌でやらなかった」というボクシング。しかし「どういうスポーツなんだろう」という気持ちが湧いてきた。実際にやってみると、その難しさを痛感。それまでやってきた競技とは体の使い方も違い、「パンチを受けるだけでも体力を使う。1対1だから自分の短所も自分でカバーしないといけないし、お互いをカバーし合えるチームメイトもいない」と、個人競技の厳しさを知った。  まずはアメリカで試合に出ようと考えたが、経験試合数の少ない選手が出場できるノービスクラスではミドル級の対戦相手がなかなか見つからず、3試合連続で流れてしまった。そこで「日本でやってみよう」と考え、大学を休学して帰国。地元関西で選手登録し、ようやく試合に出場することができた。2018年からは「他の選手たちはみんな、場数が違いすぎる。とにかく自分はグローブを着けている時間を増やしたい。みんなが1練習するなら自分は3やらないと勝てない」と、より選手の多い東京に移り、12月に4回目の出場で社会人全日本選手権を制した。  現在は、五輪を目指す理由をこう語る。「東京農業大学と帝拳ジムで練習させていただいて、恩返ししたいと思っている。そのためには試合で勝つことしかできない。五輪に出場して結果を残せれば、それ以上の恩返しはないと思っている」。どういうスポーツなんだろうという興味本位で始めたが、父の発言力は大きく、「メディアで自分の名前が出てしまったし、生半可な気持ちではできない。挑む覚悟にはプロでもアマでも差はない」と胸のうちを明かす。  日本、ハワイに次ぐ〝第三の故郷〟だというLAは、「ド素人でボクシングを始めた」赤井さんを真剣に受け止めてくれた。「帰ってきた感じがするし、息抜きになる」というこの街は夢への挑戦も支えてくれる。

  • コンプレックスを自信に

プラスサイズモデル/女優/コメディアン

藤井 美穂  / Miho Fuji


 

    コンプレックスを自信に プラスサイズモデル/女優/コメディアン 藤井 美穂  / Miho Fuji  

    2019年04月25日 ロサンゼルスで暮らす人々

     〝自由の国〟といわれるアメリカで、自分らしさを発見した藤井美穂さん。プラスサイズモデル、女優、そしてコメディアンという肩書を持つ。インスタグラムでは6万5000人のフォロワーがいるインフルエンサーだ。  日本人にとっては聞き慣れない〝プラスサイズモデル〟という言葉だが、欧米では世間的認知度は高い。米国の一般女性の平均であるLLサイズ以上のモデルを指す。「日本では外見のことをすごく言う。『あの子、自分のことかわいいと思ってるよね』が悪口になるって怖い。ここでは、生まれ持った変えられないことについては言わないという暗黙のルールがある」と藤井さんは語る。  子供のころから目立つのが好きで、小学校の学芸会では選ばれずに泣いたこともあるという。13歳でずっとやりたかった劇団に入り、役者活動を開始。しかし、中高一貫校へ行きはじめるといじめにより不登校になった。高校は別の学校へ進学。そこで「特技が欲しくて」入ったなぎなた部で競技に打ち込み、インターハイ、国体にも出場した。練習がキツくて「今よりずっと細かった」という当時だが、体型のことで辛い思いをすることはしばしばあった。スキニージーンズを履いていたら友人に笑われた。それでも傷ついた反応はできず、面白い反応をしてしまう。そうすると「イジってもいい」と思われてしまう。そんなことの繰り返しで、何度も傷ついた。  渡米を決意したのは、舞台を学んだ短大でのこと。国際的に活躍する演出家に出会い、「世界に出ろ」と言われ大きな影響を受けた。卒業後、女優を目指して渡米。語学学校で1年間英語を学んだ後、ロサンゼルスの演劇学校に入った。言葉の壁はまだまだ厚いと感じながらも、英語で即興演劇や漫談にもトライしていた。そんなある日、友人のすすめでプラスサイズモデルについてのYouTubeチャンネルに出演。これが藤井さんの人生を変えた。ソーシャルメディアのフォロワーが増え、スポンサーがついた。日本のプラスサイズ雑誌にも出た。「やってから面白いなと思い始めて、自分自身がすごく変わった。自信をもっていいんだと気づいた」という。  「私なんて」と自分で可能性を消してしまっていた日本を飛び出し、可能性が広がった。「あれもやっていいんだ、これもやっていいんだ、と思えるようになった」と話し、日本ではコンプレックスでしかなかった外見をほめられ「人は自分のいいところを見てくれている」と気づいた。「それを、日本で昔の私のような思いをしている子たちに伝えたい。自己肯定感を高められるようにしてあげたい」。共感者であり、伝道者。それが藤井さんだ。

  • 「死ぬまで勉強」

タトゥーアーティスト

Tatoo Koji


 

    「死ぬまで勉強」 タトゥーアーティスト Tatoo Koji  

    2019年04月18日 ロサンゼルスで暮らす人々

     日本では若い世代には浸透しつつあるものの、一般的にはまだまだ偏見が見られるタトゥー。しかし米国ではファッションやアートとして幅広く認知されている。ここでは文化として根付いているだけに、技術もどんどん新しくなり発展していくのだという。「進化するためにもここに居続けたい」と話すのは、日本人タトゥーアーティストのKOJIさんだ。  タトゥーに興味を持ったのは叔父の影響。背中一面に施されたタトゥーを見て育ち、もともと絵を描くのが好きだったこともあって自然にアートとしてタトゥーを受け入れていた。日本ではタトゥーショップへ行くとかなり高額になるが、「自分でやればタダだから」と自らの肌にインクを重ね、練習をしていたKOJIさん。高校生のとき、初めて自分で描いたデザインをタトゥーアーティストに入れてもらい、18歳でこの道へ進もうと決めた。  はじめはアルバイトをしながら生計を立て、タトゥーだけで生活するようになったのは23歳。我流で始め、まだインターネットも普及していなかった当時は本や雑誌で研究をした。しかし我流では限界を感じ、技術向上のために昔からデザインが好きだった彫り師に弟子入り。その後、独立して自分のショップを開いた。コンベンション参加のためにたびたび訪れていた米国へ来たのは2013年のこと。文化やデザインに惹かれ、「いつか行きたい」とあこがれを抱くようになっていた。  「繊細な技術やデザインは今でも日本が一番だと思う」と話すが、渡米してすぐ、日本の技術は日本でしか使えないことに気づく。「日本の技術は日本人向けのもの。米国では通じなかった」。日本人の皮膚はきめ細かく彫りやすい。色も映える。しかしこちらでは、肌の色、皮膚の厚さが違う人が多い。同じことをやってもうまくいかず、道具を変えたりと試行錯誤する日々を送った。もう一つ壁となったのが語学だ。タトゥーは基本的に一生残るもの。そのため、デザインについてもお客さんとよく話し合って決めなければならない。「最初は言葉が一番大変だった」と振り返るが、働いているショップで日本人は自分だけという環境の中、英語は自ずと身についていった。  生活の一部としてタトゥーが馴染むLA。「コンビニ感覚でタトゥーショップがあるし、街なかを歩いていれば目に触れる」と、KOJIさんもすっかりこの街に溶け込んでいる。「タトゥーはムーブメントの世界。はやりがあるし、新しい技術がどんどん出てくる。有名だった師匠でさえも自分を半端だと言っていた。だから自分も一人前は名乗れない。死ぬまで勉強。ずっとここでやっていきたい」。