連載・コラム あの時何が起こった!?

編集: Weekly LALALA - 2020年03月18日

手記ケース16

アパートで事件発生か!?

撮影には警察官が帯同する。

パサデナ在住 20代女性

ある日のことです。車で帰っていました。夕方6時くらいだったでしょうか。辺りは暗くなり始めていてあまり遠くまでは見通せませんでした。この夕闇の時間帯は、街が息をひそめ、各家庭の灯りが窓から漏れ、人の営みを感じることができるので個人的に好きなんです。だから、あの日のことはけっこうよく覚えています。

 

右折して、10mくらい走って、もうすぐでアパートの駐車場の入り口にさしかかろうとしたとき、なんだかいつもと様子が違うことに気が付きました。何の変哲もない私たちの暮らすアパートがちょっと変なんです。雰囲気が妙にものものしい。少しずつ近づいていくにつれて、おびただしい数の車、そして人があふれていることがわかりました。なに?なにが起きてるの?空気がぴんと張りつめて緊迫している。隣は教会なのですが、教会の駐車場にもたくさんの人がいるようでした。さらに目を凝らすと、その車のうち何台かは警察車両だったんです。警官もけっこうな数いました

 

何か事件が起きたに違いない。事故?火事?それとも殺人事件?銃の事件?平和だと思っていた我がアパートに異変が起こっていることを俄かには受け入れられず、パニックになりそうな自分を抑えるのに必死でした。「どうしちゃったの?」子どもの呑気な声が聞こえてきましたが「それはこっちが聞きたい」と心の中で思いました。まったく真相がわからないまま、誰に何を聞いてよいかもわからないまま、とにかく家に帰りたい一心で、入り口に向かってゆっくり進みました。停められるかと覚悟していたのですが、私たちが住人だとわかると係の人が誘導してくれました。

 

あれ?入り口から地下駐車場に入ろうとするとき違和感を覚えました。何かがいつもと違う。はて、何が違うんだろう。数秒遅れて違和感の正体が判明しました。私たちの暮らすアパートの名前を仮にABCとしましょう。普段ならそのABCを冠した看板がエントランスにでーんと立っているのですが、それがまったく違う名前のCalifornia(仮名)という名前にかわっていたのです。は?いつの間に?買収されたの?家主かわったの?こんな急展開ってあるの?何の連絡も来てないけど?もうわけが分からない。

 

事の真相がわかったのは、翌日リーシングオフィスのスタッフと話していたときでした。「ああ、ドラマの撮影だったのよ。だからほら、看板もいつも通りでしょう?」なるほど。確かにいつもの看板に戻ってる(笑)。昨日のそれは撮影用にすり替えられていたわけか。それは思いもよらなかったな。なんだ、言ってくれればいいじゃん。事前に住民に知らせておいてよ。心の中で毒づきましたが後の祭り。日本人のサガなのか曖昧に笑って会話は終わりました。こんな普通の街で撮影がおこなわれるとは!しかもうちで!まったく人生とはおもしろいものだ。

 

調べてみると、路上撮影する場合は撮影隊が当該のフィルムオフィスに必ず許可を取らなければならず、警官も帯同せねばならないルールになっているということでした。さすが芸術の街ロサンゼルス!路上の封鎖料や警官を雇うお金が必要だから、なるほど映画やドラマには莫大な製作費が必要になるというわけですね。

 

今となっては笑い話ですが、そのときは本当に驚きました。警官がいるとやはりドキッとします。心臓に悪い。この街では映画やドラマの撮影に急に立ち会うこともありうる、その場合は警官が帯同している、そしてそれは事件ではないということを念頭において、生活するといいかもしれません。

 

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    2020年05月08日 あの時何が起こった!?

     3月末から書いてきた僕の告白も、今回が最後です。ここまで長かったですが、最後までお付き合いくださった読者の皆さんに本当に感謝しています。一生誰にも言わないと決めていたのに、書くと決めた途端、あふれるように言葉が出てきました。僕はずっと整理したかったのだと思います。この出来事を。そして僕の感情の変遷を。こうして書いてきて、やっと前を向いて進めるような気持ちがしているから、やっぱり書くって不思議な行為ですね。書くことで救われているのは紛れもなく僕です。   硬膜外血腫と診断された生後2ヶ月の娘は、入院中、その原因は親による揺さぶりだと疑われました。いわゆる乳児揺さぶられ症候群です。退院後は、ソーシャルワーカーであるマリエラが週に一度自宅まで通ってくれ(わたしたちの監視も兼ねていたと思います)、それとは別にバスの送迎付きで専門の先生がいるプレイグループにも通うようになりました。また、言語の発達が遅いのではないかと思われた娘は、診断テストを受け、該当すると判断され、(ソーシャルワーカーとプレイグループに加えて)スピーチセラピストも来てくれるようになりました。赤ちゃんに英語をこんな風に教えるんだ。僕はたまにしか立ち会えませんでしたが、それを見るときは毎回新鮮な気持ちになりました。さらにはフィジカルセラピストも来てくれ、ずりばいなど運動能力の発達を促すセラピーもしてくれました。雨の日も風の日も彼女らは通ってくれました。   実はこういったサービスの料金を僕ら夫婦はとても心配していました。アメリカの病院は、後日請求です。しかも高額。いくらになるのかは、あとにならないと分からないから本当に恐ろしいシステムです。けれども請求書を開くと、それは保険会社と州によってすべて支払われ、僕らの負担は何もないことが判明。バスの送迎さえも。これには驚きました。ここまで至れり尽くせりのサービスを受けていてもすべて無料。こんなことってあるのだな。信じられない気持ちです。世界中からアメリカに人が集まってくるはずです。国民にも外国人にも一時滞在者にも同じようにサービスを施してくれるわけですから。昨今、外国人労働者の多い日本ではどのようになっているのでしょうか。   その後、僕らは日本に本帰国することになり、そのサービスを受けることはおわりました。結局、生後2ヶ月の娘は1歳半になるまでお世話になりました。もしそのままアメリカに残っていたら、ずっとそのサービスを受け続けていたと思います。必要ないと判断されるまで。日本に帰る際、再三セラピスト達にいわれたことが印象的でした。「この子に起きたことを、そして今の状態を、隠すことは決してしてはなりません。いつも開いていてください。必要なことは書類に書いて渡しますからそれを身につけて、保育園、病院などで必要なときに見せてください」なるほど、肝に銘じます。   また退院後半年くらい経った頃でしょうか。州から封書が届きました。そこにはこんなことが書かれてありました。「虐待があったとは認められなかった」州マターだったんだ。やっぱり疑われていたんだ。けれども疑いは晴れたんだ。調査にこれだけの時間を要したんだ。ああ、よかった。色々なことが氷解していき、心がすうっと軽くなり、胸の底にこびりついていたものが溶けていくようでした。   あのとき小さかった娘は今では6歳になり、おかげさまで元気に過ごしています。生きていてくれることに心から感謝しています。本当にありがとう。(完)  

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    2020年04月29日 あの時何が起こった!?

    退院後、僕らは普通の生活に戻るまでにけっこう時間がかかりました。周りの友人は「大丈夫?どうしたの? 入院、大変だったね」とメールで慰めの言葉をかけてくれたりもしましたが(妻の方がその何倍もママ友から声をかけられたでしょうが)、僕は何があったのかを、ついぞ、はっきりと伝えることはできませんでした。誰にも言えなかった。虐待を疑われていた(いる)なんて。   それ以降、僕らの家には、ソーシャルワーカーが週に一度水曜日に通ってくれるようになりました。おそらく病院から連絡がいったのでしょう。アメリカの、このあたりの連携は目を見張るものがあります。マリエラというその女性は、とても優しかった。あたたかい人だった。妻に「孤独じゃないか」何度も聞いてくれるのです。赤ん坊と2歳児を連れてどこに出かけたらいいのか、電車の乗り方、バスの乗り方、どこに行けば同じような境遇の人に会えるのか、預けるならばこういう施設がある(どれも高くて現実的ではありませんでしたが)などなど。   そして親への言葉かけとともに、赤ん坊にも2歳児にも優しく接してくれ、雨の日には、自家製シャボン玉をつくり、家の中に飛ばしてくれたりもしました(室内でシャボン玉を飛ばすという発生に度肝を抜かれましたが)。赤ちゃんへの基本的な正しい接し方をみせてくれていたのだと思います。僕は最初はやや不服でした。僕たちの育児の不十分な点を探されている気がして。でもそのうちに、このサービスをありがたく思うようになりました。   外国で頼る友人もいない妻に、マリエラは、赤ん坊の月齢が近いプレイグループの場所を教えてくれました。そこで似たような境遇の人と友達になったらいいと思ったのだと思います。「素敵な先生もいるからすごくいいわよ」と明るく話すのでした。けれどもその場所は我が家からちょっと遠かった。車で20分。そこに行く、ちょうどいい公共のバスも電車も走っていませんでした。僕らは車を所有していませんでしたから、通えないと伝えると、「それならばバスがあなたたちを迎えに来るよう手配するわ」と言いました。驚きました。バス? プライベートバスのこと? それを手配? 本気なの? 結局、その言葉は本当で、妻は毎週水曜日、所定の時間にアパートのエントランス前に降りていき、娘のカゴのようなバスケット型のカーシートと、2歳児のカーシートのふたつを持ち(これがなかなか大変なのですが、僕は仕事のため付き添えませんでした)、背中にはお尻ふきやオムツの入ったリュックサックを背負い、迎えに来たバスに乗ってそのプレイグループに通うようになったのです。妻も子どもも、とても楽しそうに通っていました。「簡単な英語しかしゃべれないから他のお母さんと深い話はできないけれど、みんなとても親切なの。始まる時と終わる時、必ず歌を唄うのよ」妻の話を聞くのが楽しみでした。あるときは、砂を使って感触を確かめたり、あるときは水に触ったり、あるときはゲームをやったり、プレイグループは専門の先生によって内容が考えられ、実行されているとのことでした。すごいものだなあ。僕は感心していました。母親を孤独にさせないようにサービスが整っていることに、そして家族の情報が一斉に共有されることに、です。日本にもこういった行政サービスはあるのでしょうか。僕はアメリカが、自国民だけでなく外国人にもひらかれ、外国人だからという理由ではじかれないことに感謝の気持ちでいっぱいでした。   ~その7(5月8日 最終号)に続く~  

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    2020年04月22日 あの時何が起こった!?

    乳児揺さぶられ症候群。知らない方もいらっしゃると思うので、これについて説明します。赤ちゃんは一般に頭が重く、首の筋肉が未発達のため、激しい揺れで脳が衝撃を受けやすい状態にあります。また、新生児の脳の大きさは大人の3分の1ほどの大きさで、ここから成長に伴ってどんどん大きくなっていきます。この脳の発達に備えて、頭蓋骨と脳の間にはある程度隙間があり、赤ちゃんの頭の中は、まさに頭蓋骨の中に脳が浮いているような状態。そのため、激しく揺さぶられると、頭蓋骨の内側に何度も脳が打ちつけられ、脳の血管や神経に損傷が起きてしまうのです。だから、親が赤ちゃんをあやしたり抱っこするときには、非常に注意する必要があります。首が据わるまでは特に。   このことは少し聞いたことはありました。乳児突然死症候群と同じくらい、言葉としてはそれなりに認知されている病気だと思います。僕は、医師、看護師、ソーシャルワーカーの医療チームに、あるとき「強く赤ん坊を揺さぶったことはなかったか」と聞かれました。それでピンと来たんです。親が娘を強く揺さぶった結果、乳児揺さぶられ症候群となり、娘は硬膜外血腫になったのだと彼らは推理していると。シェイク・ベイビーという言葉が何度も出てきました。   病院に3泊とまって、怒涛の質問攻撃や、入院生活にあまりに僕たちは疲れてしまって、娘は置いていかねばならないけれども、一旦残りの家族3人で帰ろうということになりました。救急車で向かったときはすごく遠い場所だと感じましたが、電車でひと駅、歩ける距離です。2歳の子をベビーカーに乗せて、僕ら夫婦はとぼとぼと家路につきました。妻と横に並んで歩くのはひさしぶりでした。彼女は基本的にはずっと病院に寝泊まりしていましたから。まだ明るかったのを覚えています。川はきらきらと光って、とてもきれいでした。きれいなのに、いや、きれいだから、余計自分たちがみじめに感じられました。川と僕ら家族はこんなにも違う。声をあげて泣きたかった。どうしてこういうことになってしまったのか、誰かに教えてほしかった。僕たちは完全に打ちのめされていました。自分たちがおこなってきた育児が間違ったものだったのではないか、振り返らざるを得なかったからです。そして妻は、僕が娘をぞんざいに扱っていたことを実は不満に思っていたことも知ることになったのです。もっと丁寧に、壊れものを扱うように娘に接してほしかったと彼女は言いました。   その日は泥のように眠りました。僕は自分の育児にまったく自信が持てなくなっていました。反省もしていました。でもどこかで、果たしてそれくらいで硬膜外血腫にまでなるのか、という気持ちもありました。妻もひどく落ち込んでいました。妻は僕にもっと強く注意すればよかったと後悔している様子でした。いずれにしても、僕らは親失格だと烙印を押されたのです。乳児揺さぶられ症候群を疑われるということは、つまり虐待をしていた可能性があると見なされたということになります。   翌日、娘の待つ病院へ3人で行きました。もう一度医療チームに同じような尋問をうけ、そのあと「退院していい」と告げられました。原因を突き止めることはできたのでしょうか。できなかったのでしょうか。詳しい説明はありませんでした。そして2週間に一度、来院し、医師に診せるようにいわれました。とにもかくにも、4泊入院した生活にこれでやっと区切りをつけることができたのです。   ~その6に続く~      

  • 手記ケース17

僕らはずっと疑われていた。

乳児揺さぶられ症候群の話(その4)

元ノースリッジ在住 30代男性

 

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    2020年04月15日 あの時何が起こった!?

     手術は無事成功しました。心の底から安堵しました。こんなに嬉しかったことはなかった。無宗教論者の僕でも神に感謝しました。神様、仏様、この世に生きるすべての者、本当にありがとう。娘を助けてくれてありがとう。   しかしそれから妙なことが起こるようになりました。妙だと思ったのは振り返るからわかるわけで、そのときはもちろんわからなかったです。   僕ら夫婦は、娘の担当をしてくれている複数の医者、看護師、ソーシャルワーカーから娘の家での様子について、何度も質問されるようになったのです。ここは病院なのに、ソーシャルワーカーも入るのだな、手厚いな、そのときはそれくらいしか感想を持ちませんでした。さすがアメリカ。包括的に対応してくれるんだな、と好感さえ抱いていました。   一度、様子を詳しく聞くだけならわかります。でも、一度ではなかった。何度も聞かれました。「名前」「性別」「家族構成」「あなたはあの子の養育者で間違いないか」「生まれたときおかしな様子はなかったか」「家で変な様子はなかったか」「娘を落としたことはないか」そんな風に。あるときには「伴侶の育児でおかしいと思うことはなかったか」そういうことも聞かれました。妻も同じことを聞かれていたと思います。妻は英語が上手ではないので、ひとりで別室に連れていかれる時、とても不安そうでした。けれども通訳の機械を使うから大丈夫といわれ、僕らはそれに従いました。   つまり、硬膜外血腫の原因を彼らは探っているのでした。なぜ、これが起きたのか。自然発生的に起こることではないからその原因を突き止める必要があったのでしょう。娘は、手術は成功したというのに、なぜ硬膜外血腫が起きたのかを突き止めるために、さらなる検査を受けなければなりませんでした。あの小さな体で。何本も針を刺されて(血管が細いから何度も刺し直しになる)。そのたび当然のごとく泣く。もうやめてくれ。やめてくれよ。何度そう口にしそうになったかわかりません。あの泣き声は今でも耳に張り付いている。かわいそうでかわいそうで生きた心地がしなかった。小さな赤ん坊に針がたくさん突き刺さっている様子は見ているだけで胸が痛みます。   早く家に帰してほしい。そんな風に思いながら病院に全部で4泊くらい入院したでしょうか。手術は2日目におこなわれたので、残りは検査入院でした。妻がいつも付き添い、僕は2歳の子を連れて病院と家を往復しました。徒歩で。大きな川を渡って。妻が家にシャワーを浴びに帰る時だけ、僕は娘の付き添いを交代しました。2歳の子の食事を僕はどうしていたのだろう。僕は料理がほとんどできません。白米のおにぎりとうどんをひたすらに食べさせていた気がします。とにかく必死でした。   その病院は娘の生まれた病院ではなかったため、生まれた病院に「産道を通るとき、頭に傷をつけるようなことがなかったか」質問状を出したことも途中聞きました。しかし「出産に何も問題はなかった」と回答がかえってきたそうです。   医師と看護師とソーシャルワーカーのチームは、僕たちを疑っていたんだと思います。もしくは僕か妻のどちらかを。最初から疑っていたからソーシャルワーカーが入っていたのでしょう。さすがの僕らも、それがだんだんとわかってきました。僕たちは、赤ん坊を意図的に揺らし、虐待をしたのではないかと思われていたんです。乳児揺さぶられ症候群。この言葉を聞いたことがある人はいらっしゃるでしょうか。   ~その5に続く~  

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僕らはずっと疑われていた。

乳児揺さぶられ症候群の話(その3)

元ノースリッジ在住 30代男性

    手記ケース17 僕らはずっと疑われていた。 乳児揺さぶられ症候群の話(その3) 元ノースリッジ在住 30代男性

    2020年04月13日 あの時何が起こった!?

     おおきな川を渡ってどーんと建っているその病院は地元では有名で、まさかこんな形でそこを訪れるとは思ってもみませんでした。どこが入口かわからないくらい、大きかった。2歳の子は様子が違うので、ぐずりました。お願いだから今は静かにしていてくれ。いつも行っている病院とは違うので、保険の確認に非常に時間がかかりました。一刻を争うのに、夜間受付の係の人は、何度も僕らの保険のことを聞いてきます。なんで?保険なんてあとでいいじゃん。早く娘を診てくれよ。アメリカの洗礼を浴びたような気もしました。アメリカの医療はとかく問題視されますが、その一端をここで味わったのです。    保険の確認が取れ、娘はやっと医者に診てもらえることになりました。深夜だったので、医者の卵しかいないだろうと思われ、ちゃんと正確な判断をしてもらえるか不安でしたが、とにかく藁にも縋る思いでした。医者は「ベイビーは震えたのかどうか。震えたのはどれくらいの時間だったか」そこを何度も聞いてきました。僕たちが見た痙攣、あれは本当に痙攣だったのだろうか。それとも違うものだったのだろうか。そののち、これを何度も確認されることになるのですが、そこの記憶があやふやなんです。痙攣したように感じたので「痙攣した」と答えました。   その日は夜も遅いので、すべての検査は翌日に持ち越しになりました。娘はそのまま入院し、僕たちは泊まるわけにもいかないので帰ってきたはずなのですが、果たしてどうやって帰ったのか覚えていません。病院に搬送されて以降は記憶が断片的なんです。もしかして病院に泊まったのだろうか。いやいや、そんなはずはない。ならば、あんな真夜中にどうやって帰ってきたんだろう。タクシーがつかまるとはとても思えない。妻だけ授乳があるから泊まったのだったか。上の子はちゃんと眠れたのだったっけ。   ともかくも翌日もまた、早朝から病院に行きました。2ヶ月に満たない娘が心配でたまりませんでした。採血や検温、診察、心拍数、血圧、MRIなどたくさんの検査ののちわかったことは、娘はなんと硬膜外血腫だということでした。驚きました。そんな大変な事態になっているなんて思ってもみなかったです。そしてこの言葉に行き着くまでがそもそも大変だった。なぜって話される英語の医療用語がまったくわからないからです。医師の発する言葉と、日本語の「硬膜外血腫」が結びつくまで、けっこう時間がかかりました。医療用語の訳は辞書上ではまだまだうまく連動していないことも学びました。   妻はパニックでした。医師は、娘に起きていた異変はこれが原因なのかもしれないし違うかもしれないが、ともかく血抜きの手術をしなければならない、そこまで難しい手術ではないと言い添えながら、サインが必要だといいました。血抜き?頭に針を刺すの?大丈夫なの?妻が横で何度も言っていました。「言語に障害が残るのではないか?」そんな質問もしたような気がします。「わからない」医師はそう言いました。残るとも残らないとも彼らにいえるはずはありません。彼らは何も約束しない。でも、だからといって僕らにできることは他にありません。医師が必要というのなら、それに従うまでです。僕はサインしました。どうか無事であってくれ。どうか手術が成功してくれ。たくさんの針が小さな体に刺され、ストレッチャーに乗せられた娘は、手術室のほうに向かっていきました。かわいそうでかわいそうで、僕は涙が出てきました。   ~その4に続く~