Vol.21 二人のオヤジの死(Weekly LALALA 707号掲載)

人生も商売も、出る杭うたれてなんぼやで。 連載 Vol.21 吉田潤喜

二人のオヤジの死

ゴルフ場開発の問題が何とか解決した直後、私を大きなショックが襲った。九二年七月十三日、義父・ブーマーが六十四歳で亡くなったのである。 義父は亡くなる二年前、ユナイテッド航空を退社。引退後、長年の夢だったアメリカ一周旅行を実現するため、大型トレーラーを買い込んだ。そして、義母・ジーンを伴って出発してすぐ、旅先で体調が悪化。病院で検査を受けると、前立腺にガンが見つかった。退職からわずか四ヶ月後のことだった。 義父は昔気質の強い男だった。それだけに、自分の体が弱っていくのはつらかったに違いない。私とリンダは時間の許す限り、自宅療養を望んだ義父のもとを訪れた。もともと口数の少ない人で、せっかく娘が来ているのに、「孫たちは元気か」と、ぶっきらぼうにたずねるのが精いっぱい。私に対しては、「相変わらず、苦労しているらしいな」と苦笑いを浮かべるだけだった。しかし、義父の深い愛情を理解するには、多くの言葉は必要なかった。 数年前、私がソースのビジネスで危機に直面したとき、義父は退職に向け積み立てていた資金を提供してくれた。私の前に遠慮がちに小切手を差し出した、あのときだって口数は少なかった。お陰で私は、危機を乗り越えることができたのだ。 実の父・慶道とは、親子らしい関係はほとんどなかった。子どもの教育に無関心なばかりか、家にすら寄り付かないのである。仕事としていた写真はカネにはならず、一家の生活を支えていたのは母だった。 その親父も、義父が亡くなって一年後、七十三歳で鬼箱に入る。山に写真を撮りに行く前、いつものように教会で祈りを捧げていた最中、脳溢血で倒れ、二年の入院生活を経て、天国に召された。 私は京都へと飛んで葬儀に出席したのだが、親父に対する私の見方は、そこで一変した。親父は会社勤めをしていたわけでもなく、写真家として名をなしたわけでもなかった。にもかかわらず、何百人もの人が参列して死を悼んでくれていた。 何度となく人に裏切られても、親父は、「しゃーないやん!」と気にもせず、人の悪口だけは決して言わなかった。そんな親父の性格が、死に際して大勢の人たちの涙を誘ったのだろう。 親父に対しては、今では尊敬の気持ちを持っている。母には迷惑のかけっぱなしだったが、自分の信念を貫いた人なのである。ただし、そう考えるようになったのは、あくまで親父が亡くなってからのこと。親父の生前、私たち親子には会話らしい会話もなかった。 一方で義父とは、実の親子以上の絆で結ばれていた。私が素直に「オヤジ」と呼べる相手でもあった。肌の色から性格まで、何から何まで違っていたのに、考えてみれば不思議な話だ。実の父親とまともな関係を築けなかった私は、知らず知らずに、「オヤジ」を求めていたのかもしれない。 「ダッド(お父さん)!」 初対面でそう呼び、ムッとされてから、もう二十年の月日が流れていた。私は義父の棺を前に、もう一度、同じように呼びかけ、そして泣きじゃくった。あれほど人前で泣いたのは、後にも先にも一度きりのことである。

吉田潤喜
1949年京都市生まれ。69年渡米、ワシントン州とオレゴン州における空手を使った警察逮捕術主席師範を経てヨシダフードを設立。醤油ベースのソース「ヨシダソース」が爆発的ヒットに。現在グループ会社の会長兼CEO。2003年、インテルやAOLなどと並び、米国の優秀中小企業家賞を受賞し殿堂入りを果たすとともに、2005年のニューズウィーク日本版にて「世界が尊敬する日本人100人」にも選出される。

このコラムは『人生も商売も、出る杭うたれてなんぼやで』(幻冬舎アウトロー文庫)から抜粋・編集しています

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