Eugene’s LIVE TALK 野村祐人 X コウ・モリVol.1『 映画製作と配給 』(Weekly LALALA 727号掲載)

Eugene’s LIVE TALK

Vol.1 『 映画製作と配給 』

野村 モリさんは、シンプルなくくりでいうと映画人であり、映画という枠を使って全方位で活躍していらっしゃいます。映画プロデュースをはじめ映画配給をして作品を世に出すまで、映画に深くかかわっているから、僕としてはいずれ役者もやってもらいたいなぁなんて思ってるし、今後は一緒にいろんなことを企てていきたいですね。でも、モリさんって今はそんなふうに映画にどっぷりと浸かった生活をしているけど、日本にいた頃からばりばりと映画業界で仕事をしていたんですか?
モリ まったくもって違う業界にいましたね。日本にいた時は、音楽の流通の仕事をしたこともあった。もともとギターを弾いてバンドもやってました。でもベーシックの部分にはいつも海外がありました。自分の親父が旅行会社をやっていて、仕事先の外国からよく絵ハガキを送ってくれてたのが原点だったのかな。それで中学の頃には、自分の将来のビジョンに、人間としてワールドワイドなビジネスをしたいと頭に描いていたんですよね。20歳の時に2年ほどワーキングホリデーでカナダで暮らしたこともありました。
野村 その考えの先には、日本国内だけじゃないグローバルな発想のビジネスがあったわけですね。それが好きな音楽のビジネスか、または映画のビジネスだったのかな。
モリ といっても音楽にしても映画にしても、その頃は趣味の範囲でしかなかったし、キャリアがあるわけでもない。カナダから帰国後は、日本でアメリカからの輸入品の販売会社の立ち上げや、飲食ビジネスにも携わって、ビジネスも順調に拡大していったんです。そうして年を重ねていくごとに自分がどうしたいかが見えてくる。それまでの自分のパズルを組み合わせると、やりたいことは映画なんだと見つかったし、それならロサンゼルスと思ってLAに28歳で渡ってきました。
野村 そうやってみんなアメリカに夢を抱いてくるわけだけど、アメリカに来て、すぐに映画を作ります、っていうわけにはいかないですよね。ビジネスをするにしても、映画を撮るにしても資金だっているし、ビザ問題というのもあると思うけど、そこはどうやって解決していったんでしょうか?
モリ そう、そこをどうするか。それをクリアするまでが大変でした。結局、会社を立ち上げてビザを取得しても会社ビジネスがちゃんと回ってないと継続できない。その間にキャッシュフローを作るために、唯一のアメリカ人の知り合いと組んでサンルイスオビスポでTシャツを売ったんです。
野村 それって、映画とはまったく関係ない発想だけど、なんでまたサンルイスオビスポでTシャツを売ったんですか?
モリ 自分が渡米した少し前の97年頃に、エルニーニョに襲われてその周辺のビーチに象アザラシが大量発生して名所になったんです。各地から大勢の人たちが象アザラシを見に来ているのをみて、象アザラシのTシャツが売れるんじゃないかと。安易な考えで大量にTシャツを作ってダンボールに詰めて周辺の土産物屋さんを回ったら、彼らその場でチェックを切って即買いしてくれた。
野村 象アザラシが大量発生して、Tシャツも大量発生。そこに乗っかってくるのはアメリカ人の懐の深さというかノリの良さというか・・・アメリカだからこそ起こりうること。それが資金となって本格的に映画ビジネスがスタートしたというわけですね。

■コウ・モリ ロサンゼルス在住。映画プロデューサー、映画配給者。映画製作配給を行うELEVEN ARTS, Inc. President & CEO。Man From Reno (LA Film Festグランプリ、Independent Spirit Awards ノミネートなど受賞多数)、太秦ライムライト(ファンタジア映画祭グランプリ、ゴールデングローブショートリストなど受賞多数)ほか多数製作。プロデューサーとして日本人唯一PGAメンバー(Producers Guild of America)
■野村祐人 東京都出身、ロサンゼルス在住。俳優、映画プロデューサー。父は、バンド「ゴダイゴ」をプロデュースしたジョニー野村氏、母はキャスティングディレクター・演出家・作詞家の奈良橋陽子氏。日米で俳優、映画プロデューサーとして活躍

モリ またそこからが長い道のりでした。僕が映画配給ビジネスに入っていったことの一つは、映画『マリリンに逢いたい』(1988年)で知られるすずきじゅんいち監督との出会いでした。プロデューサーとして一緒に映画を作らないかと声をかけていただいたけれども、映画って作ろうと思ってもすぐ作れるものでもない。まず最初は、すずき監督が権利を持っている映画作品や、知り合いが権利を持つ作品を集めて日本映画祭みたいなことをやろうと2001年に「チャノマ映画祭」をスタートしました。それが好評を得て配給が始まったんです。
野村 確か、モリさんが映画の配給を始めた2000年頃って、ちょうどホラー映画『リング』や『THEJUON/呪怨』がちょうど世に出て、Jホラーブームが来た頃。その波に乗ってすずきじゅんいち監督と組んでホラー映画を作ろうとは思わなかった?
モリ 映画を作るならやっぱりホラー映画と思いました。作るなら低予算でしか作れないので、資金作りのためにもJホラーをアメリカだけでなく海外にも売ろうと思い、日本へJホラー映画探しに行ったんです。30作品ほど見つけて売ってみたらこれが飛ぶように売れた。そこで、すずき監督と自分の初プロデュースのホラー作品を売ってみたら、映画製作・配給会社のライオンズゲイトが買ってくれた。これはイケるということになり、本格的な映画プロデュースがスタートしたわけです。
野村 Jホラーがあれだけブームになって海外に広がっていった大きな要因もいくつかありますよね。当時がよかったのは、世界的にまだビデオビジネスが元気だったこと。それに対してのビデオ発売権が莫大なお金を生んでたし、しかもホラー映画のトレーラー(予告編)がよくできていたら、それだけで売れていたはず。そんな映画業界の中でのいろんな変化が、映画の海外配給や国内配給にも大きく影響した部分はあるかもしれませんね。
モリ そうですね、映画の配給ビジネスでは、海外セールスが落ちていたので、今から10年ほど前にもう国内配給にシフトし始めました。浮き沈みがいろいろある中で、だんだん映画人としての自分の立ち位置もはっきりしてきたんです。
野村 確かに、映画業界って基本的に、映画を作る人は作る人、配給する人は配給する人と、専門職として分かれていて、それは日本問わず万国共通。両方をする人ってなかなかいない中で、映画プロデュースと映画配給の両方にパッションを注ぐモリさんの存在って珍しいと思います。
モリ 映画製作も映画配給も、何を作るかと何が売れるかを考えるわけだけど、一連のプロセスを踏む上でその両方が密接に交差したり、ぐるぐると円を描いて回っているんです。映画は、作って終わりではなく、こんな映画を作るならこんな路線で売っていくとか、出口まで考えることが大切だと思うし、それを追求するのが自分の役目だと思っています。

次号「ハイブリッドな映画作品」に続く。

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