<連載コラム>チーム支えるフロント(1)(Weekly LALALA 759号掲載)


LAドジャース インターナショナルパートナーシップ部マネジャー
佐藤 弥生 さん


チーム支えるフロント(1)


<連載コラム>チーム支えるフロント(1)
佐藤さんが企画したハローキティとのコラボレーションは大成功。2018年8月、スタジアムにて

 米国でMLBに携わる仕事をするのは「単に必然と偶然」という佐藤弥生さんは、LAドジャースのインターナショナルパートナーシップマネジャー。「アメリカには結婚を機に来て、たまたまドジャースの仕事が見つかっただけ」と話す。しかし、必然と偶然が重なれば運命だともいえる。もともと野球好きになる基盤はあった。
 父はかつて、強豪校がそろう愛知県の高校で甲子園を目指していた。亡くなる半年ほど前まで社会人チームでプレーし全国優勝もするほどだった。佐藤さんも父の影響で、物心ついたころには毎晩テレビでナイター中継を観ていた。母も運動神経抜群で、結婚してから始めたテニスの腕前は70代になった現在でも衰え知らず。その遺伝子を継ぐ佐藤さんは、幼いころから活発で常に男子と外で遊んでいた。幼稚園年長から小学校6年途中まではバトントワリング競技に打ち込み、大会前は毎日授業後と週末、夜遅くまで練習に明け暮れたが、全国大会では7位が最高だったため「このままマイナーでプロのないバトンを続けても将来役に立たない」ときっぱり見切りをつけた。運動神経はとても良かったものの、「スポーツ選手として成功できるほどの才能はないと早くから悟っていた」ことから、色々なことを少しずつかじるといったスタンスだった。野球関連の仕事につきたいと特に思っていたわけではないが、「スポーツは好きだったので、ぼんやりとスポーツ関連の仕事に興味はあったかもしれません」と振り返る。
 1989年、高校生だった佐藤さんは交換留学で米国へ。ホームステイ先のベイエリアは、アスレチックスとジャイアンツのワールドシリーズで盛り上がっていた。第3戦開始前に起こった大地震のため10日間中断するという体験は「一生忘れません」というほど衝撃的だった。これがMLBとの出会い。このころはまさか自分がメジャーリーグで働くことになるとは夢にも思っていなかった佐藤さんだが、「一番印象に残っているサンフランシスコ大地震が地元開催のワールドシリーズの最中だったのも不思議な縁かもしれません」と振り返る。後にマグワイアがドジャースの打撃コーチに就任した際、「留学生時代、ワールドシリーズを地元で応援していたと直接言えたのがうれしかったです」と、思い出は深い。2003年にLAへ来た当初、ドジャースのアジア部アシスタント募集を見て「面白そう」と応募すると、3度の面接を経て採用が決まった。シーズン後に辞めて転職のため香港へ行ったが、後2年が経過した2007年末にジャースからお声がかかり、復帰を果たした。

■Yayoi Sato
愛知県名古屋市出身。幼稚園から小学校6年までバトントワリング競技に打ち込み中部地区大会ジュニア優勝、全国大会では最高7位。縄跳びでは全校トップ、スポーツテストで1級取得など運動神経が良くスポーツ好きの少女だった。父の影響で野球好きになるが、名古屋在住でありながら気づけば巨人ファンに。米国交換留学をした高校生のころMLBと出会う。結婚を機に渡米後、LAドジャースに就職し、ベースボールオペレーション部のアジア担当部を経てインターナショナルパートナーシップ部マネジャー。

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